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 2016年5月31日 鬼の霍乱

 朝起きたら身体の節々が痛かった。関節も動きがおかしい。

 「あれまあ、俺もとうとうそんな歳か」

 しかし、これを歳のだけのせいにしていいのか? だって、昨日は何ともなかったもん。

 「あのね、老化ってのは、突然やって来るの」

 という説明もあり得よう。だが、それにしては、全身の肌が何となくピリピリする。敏感になっている。あれまあ、鼻水も出始めたぜ!

 脇の下に体温計を挟んだ。

 「ちょっと! もういいんじゃない? ピッピって鳴ったよ」

 妻女殿が横から口を挟んだ。ん? もう計測が終わった? ピッピって鳴った? 聞こえなかったぜ。ああそうか。俺、もう何十年も耳鳴りと付き合ってるもんな。耳鳴りのおかげで聞こえないんだな。まあ、老化に伴って耳が遠くなっているのかも知れないが。

 体温計を引き抜いた。37.2度

 「やっぱ、熱があるわ」

 そう、今日は朝から、何故か微熱が出た。そうかあ? 昨日は何にもしてないぜ。晩飯食って、日誌を書いて、映画を1本見て、少し本を読んで寝ただけだろうが。
 上掛けが薄くて風邪をひいたのか?

 いずれにしても、本日の私は体調不良である。鬼の霍乱である。
 それでも、妻女殿のリクエストに応えて、庭木に鋸を入れて切った。夫を演じ続けるとは、無理に無理を重ねる努力なのである。

 いまだに、何となく頭がボーッとしている。ボーッとしているのはいつものことだが、加えて頭が痛いような気もする。痛くはない気もするが、本当のところはよくわからない。
 ま、明日になれば治ってるさ?


 そんなボーッとした頭で、でもムカッとしたのは朝日新聞の、1ページのほとんどを使ったインタビューである。登場したのは古舘伊知郎。かつてのニュース・ステーションのキャスターだ。

 何にむかついたか。見出しである。

 「予定調和破れず/自制と葛藤あった/反権力に自負」

 前の2つは、まあよろしい。むかついたのは

 「反権力に自負」

 だ。
 古舘がキャスターを務め始めた当初は、私もチラチラ見た。まるで二十歳のガキが、無理矢理に反権力ポーズをとって悦に入っている醜態に飽き飽きし、いつしか見なくなった。それなのに、ヤツはこんな言葉で自分を評価するか。

 私が見るところ、この男、頭が悪い。舌の回転だけはなめらかだから起用されたのだろう。だが、数回登場すれば頭の悪さ、教養のなさは露呈するし、知識の不足、頭の回転の鈍さを何とか隠そうと、ヤツはドグマに頼った。言い換えれば、バカの1つ覚えのごとく、権力は悪であるという信条にすがりついた。
 権力も、時にはいいことをせざるを得ないのだ、ということにはまったく気がつかなかった。

 確かに、権力は悪に陥ることが多い。しかし、悪に陥った権力を言葉で打つためには、臨機応変でなければならない。権力も頭の涼やかな人々の集まりである。常に変わり、進化する。
 それを撃つには、

 「弱者無視だ!」

 などという通り一遍な批判では役に立たない。現代社会とは己を弱者の立場に置くことが、強者になる早道であることもある。であれば、弱者とは何かについて不断に考え続けることがまず必要だ。
 では、権力者は何が何でも弱者を最優先しなければならないのか。そもそも、弱者を最優先した瞬間に弱者は強者になるのではないか。全体を生かすためには弱者を無視せざるを得ない場面も現れるのではないか。

 古舘には、そのように多方面から考える能力が基本的に欠けていた。だから、古舘が政権に異を唱えても、

 「おいおい、そりゃあ、あんたの言う方が無理だ、無知だ」

 という場面が何度もあって、

 ポーズとしての反権力は、単なる芸風でしかない」

 と見極めて視聴をやめた。

 それが、こともあろうに

 「反権力に自負」

 だと!
 
 よろしいか、古舘。金儲けの手段としての、反権力的な言説を、私は「反権力」とは認めない。権力に楯突いたポーズをとることが年間数億円の稼ぎにつながるのなら、誰だって、俺だって反権力ポーズをとる。皆とお前の違いは、それが金になるかならないかだけである。

 自らの金儲けの手段として、反権力と受け取られるであろう言動を、芸風として繰り返してきたヤツがいうか?

 「反権力に自負」

 反権力の値打ちも、落ちるところまで落ちた。



 殺人未遂の疑いで被告になった暴力団員の関係者が、裁判員に

 「よろしく」

 と挨拶した。
 その言葉を正確に翻訳すれば

 「言わなくてもわかってるよな」

 と脅した。
 北九州市で起きた事件である。

 まあ、いつかは起きることであったろう。ハリウッドが作った映画にも、陪審員を脅したり、買収したりするシナリオはいくらでもある。その日本版が起きただけだ。

 書いたことはなかったと思うが、裁判員制度には当初から違和感を覚えていた。
 自分が何者であれば、他人の罪を裁くことができるのだろう? 人間なんて、どっちみちたいした違いはないものではないか。今日はたまたまあの人が罪を犯したが、明日自分が罪を犯さないと言い切れる人間が、果たしているのだろうか? いまや、裁判官だって痴漢で捕まる世の中である。

 なのに、会社で営業ノルマに追いまくられたり、旦那の浮気に神経がすり減っていたり、娘の男関係にハラハラしていたり、ブランド物で身を固めることに至上の価値を見いだしていたり、事業が不振で落ち込んでいたりするずぶの素人が、何故に被告人の犯罪を裁くことができる? 

 国が制度を作り、いつものようにマスコミが

 「これぞ制度改革!」

 と持ち上げて実施された阿呆な制度が、とうとう馬脚を現し始めた。

 そりゃあ、暴力団員の裁判だったら、その関係者は数多く法定に姿を表すだろう。そして、裁判員の顔をしっかり記憶に刻みつける。そして、裁判所の出入り口でじっと待つ。

 「よろしく」

 と一言だけ声をかけるためである。どう見ても暴力団の関係者としか見えないヤツから

 「よろしく」

 といわれてびびらないほどの肝っ玉を持つ人は多くはない。私なんぞは、その場でおしっこを漏らしてしまうだろう。

 さて国は、このような危機にさらされる裁判員をどうやって守るのか。裁判の途中で、裁判が終わって、裁判員の安全を保証することができるのか? 
 裁判官だけなら、守ることができるかも知れぬ。だが、普通の人の集団である裁判員全員の安全を確保することは、恐らく、できるはずはない。ということは、裁判員にたまたま選ばれ、たまたま暴力団の幹部の裁判を担当することになった裁判員はどうしたらいい?

 私なら、罰金を払ってでも裁判員への就任を拒む。だって、それしか自分と家族の身を守る方法はないではないか。

 それよりも、こんな馬鹿馬鹿しい制度、早くやめようよ。もし私が被告になっも、まあ、職業裁判官に判決を言い渡されるのは仕方ないと思うが、素人集団の裁判員に有罪か無罪かを決めてほしくはない。

 制度の欠陥が明らかになったら、制度を変える。それが鉄則だと私は思う。


 そうそう、DACづくりが本決まりした。近いうちに、未知の世界に挑む私の七転八倒をご報告できるはずである。

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