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 2015年5月27日 帰省

 29日の金曜日から九州に帰省することにした。
 
 九州・大牟田には、93歳になる老母が弟家族と暮らしている。母親を弟に押しつけた形になっている私は申し訳なさを感じているが、それが帰省の理由ではない。

 1ヶ月ほど前、母は、その弟(私からすれば叔父)に会ったという。弟(これは私の弟。ああ、ややこしい)が連れて行ったのだが、その場で皆驚いたらしい。

 「誰ね、この人」

 久しぶりに会う弟の前で、母がそう言った。

 「あんたの弟やんね。分からんとね」

 と弟が説明すると、

 「ああ、そうやったたい。ど忘れしただけたい」

 といいながら、しばらくするすると

 「あんた、誰ね」

 これはもう、痴呆がかなり進んだと判断するしかない。

 「じゃけん、あんたの顔ば見て、自分の息子と分かるかどうかが勝負たい」

 とは、私に帰省を促した弟の言葉である。

 それだけなら、夏休みまで待つことはできる。私が行こうが行くまいが、痴呆の進度に変化はあるまい。

 その弟が、6月にバリに行く。
 今年定年を迎えた弟の妻はバリ島の女性である。結婚して日本に移り住み、大牟田で母と同居、面倒をよく見てくれていたらしい。母が健常なうちはよかった。たまには喧嘩もしたかも知れないが、たいしたことはあるまい。しかし、痴呆が進んだ義理の母の面倒を見るのは、かなりのストレスである。なんでも、日本にいると血圧がかなり上がるらしい。バリに帰ると平常に戻るのだそうだ。
 それに、弟には夢があるという。定年を機にバリに移り住み、何か事業を立ち上げようというのだ。本当に事業家になるのか、なってもうまく行くのか、それは私の関知するところではない。彼の人生である。思うようにやればよろしい。

 という事情が重なった。

 で、母をどうするか

 が課題として浮かび上がった。難題である。
 
 30年ほど前に横浜で家を建てたとき、私は母用の部屋を作った。いずれ同居することもあるかも知れない、と考えたからだ。妻の父の土地に家を建てる。母にすれば

 「婿養子に出したつもりはない」

 という思いがあったかも知れない。それもあって、母の部屋をつくったのだ。

 だが、母は私と同居したいとはいわなかった。
 ま、考えてみれば当たり前である。
 生まれて以来、母の世界は大牟田市だけだった。故郷を出て他の土地に住んだことはない。当時は母親も生きていたし、いまでも弟がいる。大牟田を少し離れれば弟、妹がいる。友人も知人も、すべて大牟田にしかいない。唯一使える言葉も、大牟田弁だ。
 70、80歳になって、そんな故郷を離れたいと思う人は少なかろう。また、故郷から引き離すのも可愛そうだ。
 そう思って、私は弟に任せっぱなしにしていた。

 もちろん、嫁と姑の対立を見ずにすむ、というありがたさと、それゆえの後ろめたさがあったことも否定はできない。そして、仕事が忙しいこと、やがて夏休み、冬休みは、私が親元に帰るのではなく、私の子供たちが親元に戻ってくるのを待つ立場になったことで、ますます足が遠のいた。

 その母が痴呆になり、さて、これからどうするか。

 弟はバリに連れて行くともいう。
 93歳で、バリまでの旅が可能か。大牟田弁ばかりでなく、日本語が通じない土地で、本当に暮らせるのか。

 申し訳ないが、施設に入ってもらうという選択肢もある。
 だが、弟はバリ。私は桐生。生活環境を考えれば大牟田の施設が望ましいだろうが、1週間に1回訪問するとしたら、間もなく私も弟も交通費破産するに違いない。では、遠く離れた私たちは母親を施設に置き去りにするのか? 
 では、桐生の施設に入ってもらうか。それなら、例え私が横浜に戻っても、毎週は無理でも2週に1度ぐらいは尋ねることができよう。
 それでも、我が妻殿は病弱である。一時帰宅など、介護の負担は難しいと考えざるを得ない。
 それに母は

 「そげんとこには(そんなところには)行こごつなか(行きたくない)

 と桐生を評していたともいう。

 加えて、ほぼ年金便りの暮らしをする歳になった我ら兄弟に、施設の費用をまかなうことができるか。父親がアル中でまともに働かなかった母には、まともな資産がない。若いころからずっと貧乏で、いまでも貧乏なのである。必要な費用は2人で分担するしかないのだが、金銭面で頼りないのは私も弟も同じなのである。

 とにかく難題ばかりだ。
 それでも、何とかしなければならいのである。

 ついでに、田川の叔父の顔も見てこようと思う。まったく頼りにすることができない父しかいなかった私にとって、この叔父は父親代わりであった。高校から大学にかけて何度も泊まりがけで押しかけ、思いつく世の中の問題をぶつけて話を聞いた。いまの私が多少なりとも筋道を立てて物事考えることがで来ているとすれば、この叔父のおかげである。
 その叔父の奥さん、つまり私にとっては義理のおばさんが先日亡くなった。そういえば、この叔父も90歳近いはず。ひょっとしたら最後ななるかも知れないと思いつつ、酒盛り、議論をしてくる。

 戻りは31日の日曜日を予定している。



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