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 2015年5月2日 多数決

 「多数決を疑う」(坂井豊貴著、岩波新書)

 の書籍広告を見たのは、多分1ヶ月ほど前のことである。直ちに買う気になったのはいうまでもない。何しろ私は、多数決をもとに運営されている、今の民主主義と呼ばれる政治形態が、どうにも信用できないのだ。何か誤魔化され続けているような気がしてならない。

 いい例が市議会議員だ。
 威勢のいい先輩議員の金魚の糞と化し、使い走りを命じられることに喜びを見いだす奉公人タイプ。同じ奉公でも、市民のお役に立とうというのならまともなのだが。
 まったく頭が回転せず、市議会での質問をお役人に書いてもらう、いや、書かせて議会で読み上げて、ご丁寧に読み間違いまでやってしまう、究極的の能タリンタイプ。
 「まちづくりを」と市民運動のようなことをやっていて、いつの間にか立候補し、挙げ句、地域住民の地域エゴを煽って票を集める、何でも自分の為に利用する、あくどいちゃっかりタイプ
 ただただ、生活のために議員を続けることだけ、つまり議員報酬だけが目的で、あろうことか「長年勤めたんだから、今度は議長になるのが当然だ」と言い出して、周囲に呆れられる税金ドロボータイプ。
 
 そうそう、隣のみどり市では、とうとう、誰がどう見ても精神が正常ではないと思われる男性が最下位で当選した。口をアングリしたくなるのは、私だけではあるまい。

 だが、今の制度上、これ、すべて民意の反映である。

 「どこにそんな民がいるんだよ?!」

 とわめきたくなるが、それが現実だ。

 さて、多くの民たちは、どんな理由で清き1票の行き先を決めているのだろう?

 「あの人は、何もしなくても通る」

 といわれ続けた市議がいた。なんでも、親戚だけで800票ほどあるらしい。強力な基礎票である。
 市議になるのに、地域の支援は必須らしい。単に、同じ町内だから1票を投じる。それも、1票である。
 上の指令で一斉に投票所に行くのは、いわずとしれた公明党である。
 かつての社会党は、「労組に置いておくと面倒なヤツだから、市議会、県議会に送り込め。そうすれば労組が健全化する」と候補者を決めていたとの話も聞いたことがある。
 取引先の大きな企業の、御願いという名の命令で、やむなく1票を投じる人もいる。「そうしないと取引を打ち切られて一家心中だもんね」

 まだまだ沢山のケースがあろう。だが、これが、いま民主主義と呼ばれている統治形態の底辺である。国民の、市民の代表を選ぶ基準は、政策でも実行力でもない。「人柄」などと素っ頓狂なことを言う人がいるが、選挙の時だけ公僕になって、選挙が終われば王様になる人々の「人柄」が我々に分かるか?
 こうして、多数の人が選んだ代表者が、国民に成り代わって政治を行う。
 だけど、そんなもの、信じられますか?
 私は、まったく信じられないのだ。

 だから、

 「多数決を疑う」

 は、私のモヤモヤした民主主義不信に、明瞭な理論的根拠を与えてくれる、私のための本である。

 一昨日から読み始めて、唖然とした。
 多数決というルールは、我々の意志をひとつに集約できるのか? という問題の立て方は、まったく私の意に沿うものである。そして、多数決をというルールの欠陥をあぶり出す。
 そこまではいい。だが、あぶり出すのは、あくまで数学的な操作を通じてなのである。

 例えば、XYZの3人の候補者がいる選挙で、有権者は21人だったとする。投票結果はXが8票、Yが7票、Zに6票だった。つまり、Xが当選した。
 だが、である。有権者が3人の候補に順位をつけていたとしたらどうか。Xに投票した有権者は、2位にY、3位にZを考えていた。他の20人も同様に順位をつけており、実は21人中13人が、Xを最下位にランクしていた。とすれば、果たして最多得票を得たXが当選するのは正しいのか。

 ではどうすれば。1位に3点、2位に2点、3位に1点をつける制度にすればいい。これをボルダルールというのだそうだ。先の例では、このルールに従うとYが当選し、実はXは最下位になるという実例を示してある。

 そこまでは我慢して読んだ。
 だが、ボルダルールで本当にいいのか? 他のやりかたはないのか? こうして、様々な方法が数学的に検討されるのだが、途中まで読んで

 「これって役に立つのかいな?」

 という疑念に捕らわれ、読み進む気がそがれた。
 だって、有権者が持ち点を持って、ルールに従って候補者に配点するという思考法が、どうにも現実離れしているのだ。
 現実は、私の持ち点は、誰にもあげたくない、あるいは、持ち点が10点だったら、極めて不満足ながら、こいつなら仕方なかろうという候補者に1点を入れ、残りの9点は放棄したくなる、なんて選挙が五万とある。

 しかもだ。この考え方が通用するには、有権者は、各政党、あるいは各候補者の主張をすべて知り、自分の思いに合致する政党、候補者を選ばねばならない。論点が5つあれば、4つまでは一致した政党、候補者を1位にし、3つ合致したら2位、1つしか合致しなかったら3位という具合に判断するというわけだ。
 これ、とんでもない前提だよね。有権者のうち、どれだけの人が、各党、候補者の主張を知っているか? 知っているとしても、それぞれがいったことを確実に実行すると信じられるか? 政治家とは、嘘の親友なのだ。

 各地の選挙結果を見れば、

 「ちょいといい女だから」

 「テレビに良く出て来るから」

 「何となく威勢がいいから」


 なんて、どうにもいい加減な理由で選ばれてくる政治家が沢山いるではないか。それを前提に論を進めていかなければ現実には歯が立たないと思うのだ。

 無論、このような研究も全くの無駄ではないだろう。
 研究の結果、こんなことがいえるのだという。

 「そもそも多数決は、人間が判断を間違わなくとも、暴走しなくとも、サイクルという構造的難点を抱えており、その解消には三分の二に近い値の64%が必要なのだ。そしてまた小選挙区制のもとでは、半数にも満たない有権者が、衆参両院に三分の二以上の議員を送り込むことさえできる。つまり(憲法)第九六条は見かけより遥かに弱く、より改憲しにくくなるよう改憲すべきなのだ。具体的には、国民投票における改憲可決ラインを、現行の過半数ではなく、64%程度まで高めるのがよい」

 まあ、改憲しにくくなるよう改憲する、というのは笑えるとしても、私の危惧を学問的にも裏付けているという意味では、歓迎する。

 だが、この学問、きっと現実の政治に対する影響力はないだろうな……。


 明日の夜、瑛汰、璃子の一家が来る。

 「何をしたい?」

 と聞いたら、2人とも

 「鰻を食べたい」

 んだと。
 すでにして我が家は臨戦態勢にある。



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