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 2015年4月18日 出血

 数日前に気がついた。歯茎から出血してる。
 最初は鼻血かとも思った。朝生き抜けにトイレに行き、つまった鼻水を口の中に吸い込む。それを便器に

 ぷっ

 と吐き出したら、血の色だった。

 「起き抜けに鼻血? 別に自然に鼻の下が伸びるような夢を見たわけでもなし、第一、そんな歳じゃないぞ」
 
 訝りながら、数回吐き出した。その度に赤い。

 「歯茎か?」

 思い直して洗面所に生き、うがいをしてみた。吐き出した水は別に赤くない。鼻なのか、歯茎なのか。

 朝食を済ませ、歯を磨いた。歯科医に勧められた、毛先が細くなっている歯ブラシに歯槽膿漏用の歯磨き粉をつけて危ない歯を磨く。それでも、歯ブラシに血が付くわけでもなし、うがいした水がピンク色になることもない。

 原因も患部も分からないまま数日。やっと特定できたのは、歯磨きで血が出たためである。

 「ありゃあ。歯槽膿漏かよ」

 その日から、特別丁寧に、毛先の細い歯ブラシで患部を磨き続けていることはいうまでもない。
 加えて、しばらく途絶えていた、噴射水による歯茎の刺激を再開した。昨日からである。
 昼食のあと、強い勢いで噴出するぬるま湯(水だと歯にしみる)を、患部と特定できた右上の奥歯の根本に吹き付ける。面白いように血が出る。出ても出ても吹きつけ続け、最後にうがい。

 歯槽膿漏は、歯と歯茎の間に滑り込む極細の歯ブラシで患部を磨き、できるだけ血を出すのがいいそうだ。しばらく続けて様子を見よう。
 しかし、ここもそのうちインプラントか?

 かくして、人間のロボットかは着々と進む。


 昨夜は

 「そして父になる」

 を鑑賞した。カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した作品である。しばらく前、私が「らかす」で書いた文章をもとに、

 「これ、私のアイデアの盗作!

 と断じた映画だ。

 一言で言えば、盗作の名に値しない駄作であった。せっかく盗むのなら、もう少し何とかした作品に仕上げていただきたい。盗まれた男からの御願いである。

 エリートサラリーマンの息子と、町の電気屋の息子が産院で取り違えられる。子どもが小学校に入る直前にそれが発覚。産院はひたすら頭を下げ、2つの家族は、どうしたらいいのかで悩む。悩んだ末、子どもを取り替えるのだが、結局元の鞘に収まる、という筋立てだ。

 ま、粗筋だけなら、そりゃあそうするしかないわなあ、と思う。血は水より濃いのかも知れないが、人間を決めるのは氏より育ちだもんな、ということである。

 だが、たったそれだけのことを描き出すのに、この映画、仕掛けがあざとすぎる。

      ※注:あざとい=小賢しい、小利口である、頭を隠して尻を隠さない

 一方は、恐らく一流大学を出たエリートのサラリーマンである。多分、都心の高層マンションに住み、車はレクサスのフラッグシップ、LS。子どもはピアノを習い、私立の、多分有名小学校に合格する。一言で言えば、子どもはええとこのボンボンである。

      ※注:どんな会社に勤めているのかwからンが、サラリーマンがベランダから大東京が一望に望めるマンションに住めるか? レクサスLSを持てるか? 子どもを私立小学校に通わせることができるか? 何か、悪いことしてる?

 他方は、町の電気屋。この時代、よくぞ生き残っているというのが町の電気屋だが、映画の何処を見ても、生き残り戦術など何もない。たまに電球などを買いに来る客がいる程度である。良くこれで暮らしが立つものだ。そのくせ、取り間違えられた子どもを含めて3人の子持ち。人がいいだけの親爺の下、子供たちは典型的な下町っ子に育っている。

 子どもが取り間違えられたことが発覚すると、エリート君は大学で仲の良かった弁護士を立てる。電気屋さんは金の計算ばかりする。慰謝料がたんまり入ってくる。それを指折り数え始める。

 ねえ、映画で、これほどコントラストがはっきりした筋道を描かれると、

 「きっとどんでん返しがある。ホントにいい人間は電気屋の親爺で、エリート君は人でなしになるに違いない」

 と私なんぞは深読みをしてしまう。それを裏切って

 「はー、そんな手があったか」

 と思わせてくれるのは優れた映画である。並以下の映画は、私の予測に沿って話が進む。そしてこの映画、まったく持って私の思った通りに展開するのだ。

 育てた子にも血がつながった子にも愛着を持ってしまったエリート君は、何たることか、金の力にモノを言わせようとする。

 「2人とも私に下さい。お礼はします」

 ああ、やっぱりな。
 そして電気屋さんは、やっぱりいっちゃうのだ。

 「子どもを金で買う? ふざけんな!」

 あれほど捕らぬ狸の皮算用をしていたのは、忘却したのであろう。
 そのうち、子どもの取り違えは事故ではなく、看護師の犯罪だったことがあかされる。当時、男との関係がうまく行かずに失意の底にあった看護師が、

 「どうして私だけが不幸にならなきゃいけないの!」

 と、意図的に子どもを入れ替えていたのである。

      ※注:そんな動機って……。ま、人間、時にはおかしくなるが。

 彼女の罪は時効。看護師の意図的な取り替えとなると、電気屋が期待したような、病院からの巨額な慰謝料も望めそうにない。

 こうして2家族は、取り違えられた子どもの問題だけに取り組まざるを得なくなるのである。

 しかし、笑える。

 2家族は、ついに子どもを取り替える。血は水より濃いことを実践しようとするのだ。
 エリート君の家庭では、初日の夕食はスキヤキである。霜降りらしい高級肉が次々の子どもの取り皿に運ばれる。多分、この子にとっては、生まれて初めての、沢山の金がかかった食事である。
 にこやかに見つめるエリート君は、だが、嫌なものを見つけた。この子、箸の持ち方がなっていない。

 「箸をそうやって持つんじゃないだよ。ほら、パパを見てご覧。こうやって……」

 一方、電気屋に引き取られた子は、恐らく、生まれて初めて大皿料理を食べる。大きな皿に、多分鶏の唐揚げが積み上げられ、全員がそこに箸をのばす。うっかりしていると他の連中にすべて食べられてしまう……。

 まあ、どんな2つの家族を取り上げても、まったく同じ家族はない。だけど、ここまで極端に走らなければ、この映画のテーマは客に伝わらないのか?
 私なんぞは、この極端さに辟易して、見るのが嫌になったのだが。

 親も子も、無理に無理を重ねて、血だけでつながる家族を演じる。無理がいつまでも続かないのは、理の当然である。エリート君の家に引き取られた子は、ある日家出して慣れ親しんだ電気屋に転がり込む。

 やがて、エリート君は、離婚した父が迎えた後妻になかなかなじめず、家出して実母の下に駆けつけた過去があったことがあかされるが、

 「だから、何?」

 ってな感じしかしない。
 それに、電気屋の夫婦は、子どもを取り替えようと、取り替えて向こうに行ったはずの子どもがひとりで戻ってきても、まったく動じない。金もなく、地位も学歴も学問も見識もない人間というのはそんなものなのか? 何も考えず、ただただニコニコ笑って生きるのが庶民なのか? それが理想なのか?

 かつて書いた。
 家族を結びつけるのはDNAなのか、共に過ごす時間なのか、と。
 子どもの取り違えは、

 「家族とは、親子とは」

 を考える格好のテーマである。
 それをこんなに浅く、薄く、いい加減に取り扱ってカンヌで受賞?

 他にろくな映画がなかったとしても、これはカンヌの権威を地に落とす授章ではなかったか?


 さて、映画の結末とは別に、私だったらどうしたか?

 どちらも自分の子どもと認定するしかないと思う。向こうの親にも、2人の子どもの親になってもらう。子供たちはそれぞれ、2人の父、2人の母を持つ。
 とりあえずは、それまでの家で育てる。しかし、家族ぐるみの付き合いを続け、物心ついたら子どもはどちらの家に住んでもいい。それは、子どもに決めさせる。

 無論、問題も起きよう。子どもを独占したくなって、双方の親が子どもの歓心を買う競争をしないか? そのあたりは、大人同士で話し合ってルールを定めるしかあるまい。

 原理原則的な解決法はない。何が2人の子どもにとってベストかを最優先に、双方の親が何処までなら我慢ができるのか考えながら対処するしかないことだろうと私は思うのである。



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