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 2015年2月21日 無知

 我が生まれ故郷の九州は言葉が荒い。だから、このような事態を迎えたときには、こういう。

 「わが、なんばぬかしよっとか!」

 解説しよう。

 九州、それも筑後地方では(そこだけであるかどうかは不確かだが)1人称と2人称が、時として逆転する。わ(吾)というのは通常、自分をさす代名詞であるが、気分が荒れているときは、2人称に用いられる。確か、以前にご紹介したはずだ。
 従って、「わが」とは、「貴様」「きさん」「てめえ」などと同様、相手をくさすときに使う2人称代名詞である。もちろん、「貴様」「きさん」「てめえ」などに比べ、相手を蔑む、あるいは憎む気持ちはずっと強い。

 「なんば」は、もちろん「難波」でも「難場」でも「南波」でも「南場」でもない。「なん」とは「何」であり、筑後では「を」が時折「ば」となる。

 「私連れてって」

 「あんた好いとっとたい」(そういえば、最近、トンと聴かない。寂しい)

 などという表現はそれを表す。

 「ぬかし」(終止形は「ぬかす」)は、標準語にある「ほざく」に近い。広辞苑によれば「『しゃべる』の意を卑しめていう語」だ。「ほざく」よりも侮蔑の気持ちが強い。
 ついでに、「よっと」であるが、標準語に直せば「〜している」という意味になる。

 従って、冒頭のカギ括弧を標準語に直せば、

 「あなたは何をいっているのですか」

 となり、これに、思いっきり侮蔑と怒りをまぶして筑後風に表現すれば

 「わが、なんばぬかしよっとか!」

 となる。
 この表現を用いる際は、相手の襟首を左手で締め上げ(右利きの場合)、右手は拳をつくって殴りかかろうとしていることが多い。

 というほどに、今朝の私は頭に来た。
 東京新聞をめくり、4面の「考える広場」にたどり着いたときである。こんな見出しが目に飛びこんだ。

 「風刺の文化育たず」

 何のことだろうと読み始めた。しゃべったのは、デーブ・スペクター。多分、本国のアメリカでは芽が出なかったのだろう。わざわざ日本にまでやって来て、テレビで詰まらぬことをしゃべりまくっている電波芸者である。

 「日本ではそもそも、政治を風刺する文化が育ってきませんでした」

 最初の文章を読んだだけで、思わず

 「なぬ!?」

 と声を出してしまった。こいつ、流石に電波芸者である。ものを知らん。知らぬことによって立ち、何かを批判している気分になって自己満足している。
 こういうのを、たちの悪い阿呆という。

 例えば。
 「二条河原の落書」というものがある。後醍醐天皇の建武の新政が始まったころというから1330年代、京都の二条河原に掲げられた政治・社会批判の文である。
 冒頭を、ウィキペディアからコピペすれば、

 此頃都ニハヤル物 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨
 召人 早馬 虚騒動(そらさわぎ)
 生頸 還俗 自由(まま)出家
 俄大名 迷者
 安堵 恩賞 虚軍(そらいくさ)
 本領ハナルヽ訴訟人 文書入タル細葛(ほそつづら)
 追従(ついしょう) 讒人(ざんにん) 禅律僧 下克上スル成出者(なりづもの)


 高校の日本史に出てきたことを思い出していただけただろうか?
 世に埋もれて生きる目が、世の「成功者」たちの空々しさを、拳を振り上げるでもなく、淡々と指摘すれば自ずから批判となり、権勢を誇る者どもを掌に載せて描けば、風刺ともなる。

 おい、デーブ。これさあ、まだアメリカなんて国が世界地図に存在しない時代の文章だぜ。日本には、政治を風刺する文化がないってか?

 役人の子はにぎにぎをよく覚え

 江戸時代にできた川柳である。田沼意次の政治を風刺したというから、18世紀半ばの作であろう。ということは、アメリカが独立する少し前だ。

 白河の 清きに魚の 住みかねて もとのにごりの 田沼恋しき

 1787年、老中首座・将軍補佐となった松平定信は、賄賂が横行した田沼意次の重商主義政策を一転し、緊縮財政、風紀の取り締まりを柱にした寛政の改革を断行した。しかし、バブル経済は様々な犯罪を生み出し、格差や不平等を拡大するから、その中にいると批判したくなるが、終わってみれば

 「そういえば、俺もいい思いしてたよな」

 とバブル時代が懐かしくなる。そんな思いを託した狂歌である。

 おい、デーブ。どうだい、日本てのは、政治を批判するにしても、川柳、狂歌といった、文化の香りが匂い立つ形式をもってやるんだわ。あんたの国、アメリカには、これほど高度な文化はあるかい?

 戦後だって、その清新は脈々と生きている。

 ヒロヒト 詔書 曰ク 国体はゴジされたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね ギョメイギョジ

 1946年、敗戦後の食糧難時代に起きた、通称米よこせメーデーに登場したプラカードだ。高校の日本史では、革命機運の高まりの一環と教えられた記憶があるが、いま読み返すと、ダイレクトに

 「食い物をよこせ!」

 と叫ばず、ヒロヒトに独白させているのは、どこかに精神的ゆとりを感じさせ、読みようによってはユーモラスでさえある。これだって、見事な政治風刺だ。

 ねえ、デーブ。あんた、「笑点」は見ないのか?三流落語家の顔見世興行だが、ここでも政治風刺は大切な芸域になっているのだよ。

 いや、そもそも落語という大衆芸能自体が、権力批判の毒を含み持っている。威張りくさった士の首が庶民によって飛ばされる話もある。漫才だって、政治家を笑いの種にしてきた。
 デーブ、あんたが推奨する「ザ・ニュースペーパー」だって、そんな歴史の中で生まれてきたコントグループであるとは、思いつかなかったか?

 しかしな、デーブ。政治風刺とは、実は悲しい庶民の知恵であると考えたことはあるか?
 政治は庶民の頭の上を素通りする。いつも割を食うのは庶民だ、とは図式的だが、庶民と自覚している人々は、政治が自分の頭上を通り過ぎていると嘆く人である。
 嘆いたってしょうがない。だったらどうする? 笑い飛ばそうや。それが政治風刺だ。
 だが、笑ったって、現実はちっとも変わりはしないのだ。それでも、笑わざるを得ない。少なくとも、笑った方が気分は晴れる。
 この構造、悲しいと思わないか?


 しかし、それ以上に悲しいのは、デーブ、あんたの存在だ。
 故国アメリカのご威光を背景に、島国日本のテレビに出まくって、偉そうに日本の政治、経済、文化につまらぬコメントを垂れ流す。あんたのいうことなんか誰も気にしていないんだが、ちっともそれに気がつかず、いっぱしの有識者気取りだ。
 さて、あんたからアメリカを引き去ったら、あんたの話を聞きたいというヤツはどれくらいいるんだろうな?

 日本に茶々を入れたいんなら、もっと知識を増やしてからにしろ。

 「アメリカではこうなのに、日本は……」

 って話し方は、かつて3流の新聞記者が多用した手法である。そのアホさ加減にいまだに気がつかぬあんたは、いったい何者だ?


 で、ついでに東京新聞。観念左翼であることは許してもいい。しかし、こんな下らぬヤツの下らぬ話に、紙面を割くな。
 自称左翼の底の浅さが見えてしまうではないか。

 ほっ、いま見たら、デーブは

 「日本の芸能、文化に詳しい」

 んだと。バカも休み休み書け。
 東京新聞の考える芸能、文化って、その程度のものか?



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