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 2014年9月13日 三つ目

 とは、二つ目を卒業した落語家が上る階級ではない。二つ目を終えた落語家は真打ちとなり、真打ち披露の特別興業が行われる。ここまで来て、落語家はやっと一人前となり、弟子も取れる。

 では、三つ目とは何か?
 ま、しばらくお付き合い願いたい。

 朝日新聞の誤報についての報道は木村社長の記者会見で山を越した感があるが、余波はしばらく静まるまい。読売新聞は、鬼の首を取ったかのように連日はしゃぐ紙面を作っているし、来週発売される週刊ポスト、週刊現代、週刊文春、週刊新潮は必ず書く。フラッシュあたりも取り上げるだろう。

 それはそれで、朝日新聞の諸君は耐えざるを得ない。常日頃、他社や役所、官庁の不祥事の際には

 「これでもか!」

 といわんばかりの記事を書き続けているのだから、今回は、書かれる側になってみるのも、これからの取材、報道のために役立つであろう。

 で、今日はそんなことを書きたいのではない。

 朝日新聞の誤報騒ぎでは、事件のマイナス面だけが大きく取り上げられている。それもやむないことだとは思うが、よくよく考えると、

 「朝日さん、よくぞやってくれた!」

 といいたくなる点ががないわけではない。

 まずは、傲岸不遜ともいわれた朝日新聞が、重い腰を上げて誤報を認め、謝罪したことである。
 考えてみれば、公正中立をモットーとするとはいえ、報道をするのはロボットではない。人間である。

 To err is human, to forgive devine.

 という英語のことわざを、あなたはご記憶であろうか? 

 過つは人の常、許すは神の業

 そう、人がやることである。いくら注意をしても、過ちは必ず発生する。であれば、人の品格とは、己が間違ったときの対応の仕方に現れる。
 朝日新聞は、時間がかかりすぎたとはいえ、己の間違いを認めて修正し、謝罪をした。時間がかかりすぎたことを叩かれているが、とにかく一歩を踏み出した。
 それが、なぜ喜ばしいことなのか。

 何しろ、メディアを代表するメディアである。朝日がそうした以上、他の読売も毎日も、日経、産経も、東京も、あと、私の知らない新聞、テレビすべてが、これからは、間違ったら即座に訂正するはずである。朝日だって訂正した。だったら俺たちだって訂正出してもいいよな? それに、朝日は遅れたからあれだけ叩かれた。だったら、気がついたらすぐに訂正を出す方がいい。それが、業界の常識となるはずだ。
 うん、朝日以外のメディアだって、所詮は人間がやることだ。これまでだって間違いを犯し、ほとんどは頬っかむりしてきた、と私は信じておるのである。

 朝日新聞で人事の嵐が吹き荒れる。これもいいことである。
 とりあえず、一連の訂正報道、池上問題の真ん中にいたことになっている編集幹部が更迭された。首でないのはいかがなものかと思うが、まあ、それは横に置くとして、木村社長も間もなく辞めちゃう流れだ。
 それに、一連の報道について第三者委員会(だっけ?)などのメスが入れば、責任をとらねばならない人間の数はいくらでも増えるはずである。いってみれば、朝日新聞の大掃除がこれから始まる。
 組織には、必ず澱がたまる。まだ組織が小さく、それにあまり成功していなければ、その澱を掬って捨てるのは簡単だ。
 しかし組織が古くなれば、捨てたつもりでも残った澱が積み重なる。加えて、成功に成功を重ねた組織であれば、澱と成功体験がグチャグチャに入り交じってしまうから、捨てるに捨てられなくなる。何しろ、その澱の大半は、その組織で成功して偉くなった連中が作り出したものだからである。そして、澱がたまった中で次の幹部が選ばれる。当然、選ぶ人間の中にも澱がどっさりたまっているから、同じように組織の澱をどっさり持っている人間を選ばざるをえない。そう、彼らにとっては、澱こそ成功の秘訣なのである。

 その澱は、マグニチュード8程度の激震が来ないと外に出ていってくれない。いま、朝日新聞は激震を受けた直後である。

 「責任をとる」

 という形で澱と一緒に幹部が組織から出ていくはずだ。残るのは、体内に比較的澱がたまっていない連中か、澱の悪臭がいやでそっぽを向いていた連中である。
 かくして、今回の騒動は、少なくとも、朝日新聞にはいい結果をもたらすはずだ。


 というところまでは、前回の原稿を書きながら思いついた。
 そして、今日思いついたのが、

 三つ目

 なのだ。そしてこれが、騒ぎが残した一番健全なことではないか、と考える。

 それは、朝日新聞が己の非を認めたのは、言論戦の末であったということだ。
 これまで、報道に問題があると、訴訟に持ち込まれることが多かった。そのたびに、言論に対峙するのは言論であるべきで、司直の判断を仰ぐのは言論機関の自己否定である、といわれ続けた。それでも、

 「他に手段がないではないか」

 と法廷に持ち込まれ続けた。

 「そんなこと書くと、名誉毀損で訴えるぞ!」

 が脅しとして通じ、現に政治家や企業は、次々と訴訟を起こした。あれ、いまいくつぐらい継続中なのだろう?

 いや、言論に言論で立ち向かう一派がなかったわけではない。週刊誌である。中でも、朝日新聞は狙い撃ちされた。何でも、朝日批判を書くと本が売れるのだそうである。
 そういうこともあろう。なにせ、週刊誌に宅配制はない。毎号毎号、読者に財布の紐をといてもらわねば経営が成り立たない。ために、

 「売れる記事を書け!」

 となる。
 ところが、読者の方はそんな事情はとうに御存知で、

 「ま、よくて話半分、程度のことだろう」

 という読み方をした。つまり、うわさ話程度にしか評価しなかった。

 ところが今回は、週刊誌はもとより、産経、読売が朝日新聞攻撃に立ち上がった。これまで、新聞は新聞に甘い。仲間内の批判はしない、といわれていたのが、そのタブーが打ち破られた

 世の中のどこかを言論が支えているのなら、これは極めて喜ばしいことだ。言論には言論で立ち向かう。批判された人、組織には反論権を認め、最終判断は読者に委ねる。
 ずっと昔から、言論とはそうあるべきだといわれ続けた。それが、朝日新聞のチョンボをきっかけにして実現するのではないか?
 と思いついて、私は何だか楽しくなったのである。

 「朝日さん、原発の全廃やなんて、それでどないしてエネルギー受給のつじつま合わせるんどすか? いまですら日本の電気の値段は高いンでっせ。アメリカの倍や(確かどうだったと思う=安堂)。あんさんの主張通りにしたら、国民が高い電気代払わされるだけやなくて、日本の産業はグチャグチャ。みんな外国に出て行って日本は失業者だらけや」

 「ほな、読売さん。あんた、原発が安全や、いうんどすか? 福島の事故見たら、それはいえんでしょ? あんた、国民の命と金、どっちが大事やと思わはるんどすか? まさか金、とはいえんでしょ? それに、そこまで原発にこだわるんは、ひょっとしたら、日本の核武装を狙うとるんと違いますか?」


 等々、日本の進路を左右する問題をやりあう。己の紙面では、相手の主張を正確に手短にまとめて議論し合えば、世の中は、ほんの少しかも知れないけど、よくなるんじゃないかなあ。

 検察が誰かを捕まえたって、その記事をスクープした社は検察側に立ち、スクープされた社は、全力を挙げて

 「そいつ、悪くないで」

 というデータを収集する。そうなったら、何処が先に書くかのスクープ合戦ではなく、何処がどう書くのかのスクープ合戦になって、新聞もテレビもいまよりずっと面白くなると思うけど。

 ま、以上、暇に真ませて考えたことでありました。


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