●日誌一覧

シネマらかす

グルメらかす

音らかす

旅らかす

スキーらかす

事件らかす

 2013年2月20日 乱訴

 やっぱりだぜ、
 と、私は思う。
 あなたはどう思われるか?

 兵庫県明石市で、花火大会の観客が歩道橋に殺到。折り重なって倒れ11人が亡くなった。2001年というから、もう12年近く前の事故である。
 この事故で、警備を担当した明石警察署の元副署長が強制起訴された。罪名は業務上過失致死傷罪。つまり、あんたたちが警備をちゃんとやらなかったからこんな事故が起きたじゃねえか。組織の責任者として責任を取れよ、という裁判である。検察庁は確か、4回に渡って不起訴処分としたが、素人の集まりである検察審査会が

 「起訴しちゃえ」

 と決めた。
 その判決が今日下った。免訴、である。つまり、あんた、起訴されるいわれは全くないよ、という判断だ。起訴時点で時効が成立していた、という理由である。
 それだけではない。そこまでいう必要があったかどうかわからないが、

 「被告の過失は認められない

 という判断まで裁判所は示した。あんたには全く落ち度はない。あんたを罪の問うたら、それこそ冤罪になっちゃうもんねえ。そう裁判所はいった。

 さて、私が変だと思うのは、この裁判所の判断ではない。
 元副署長に罪を認めろという遺族、その言い分を認めて強制起訴した検察審査会、加えて、悪魔で遺族の肩を持とうというメディアの連中である。


 不幸な事故である。
 その不幸な事故を、自分の事として考えてみよう。

 花火を見に行く。誰しも、もっとよく見える場所はないかと探す。おお、あった、あった。あの歩道橋に上がれば、人混みより一段高いところから綺麗な花火を見ることができる。さあ、行こう!

 そこまでの判断は的確であったかもしれない。しかし、判断するに漏れ落ちた要素があった。いい場所を発見するのは自分だけではない、という事実である。あるいは、自分が最初にいい場所を見つけたとしても、すぐにそれを真似するヤツが現れるという事実である。

 その場にいて、空間を埋め尽くしている群衆が、どっと歩道橋に押しかけたらどうなるか? こうした要素まで考慮に入れることを、危機管理という。そして、個人でできる範囲では、危機管理は個人でやるべきことである。危機管理とは、現場にいる個人しかなしえないものでもある。

 危機が現実となった。いい場所に行こうと大群が歩道橋に登り、続いて登ろうとしたため、歩道橋上は通勤ラッシュ時の山手線以上の混雑と成った。そして事故が起きた。

 さて、この自己の責任は誰が取るべきなのか?

 私は、歩道橋に押しかけた全員が取るべきであると考える。他人より少しでもいい場所で花火を見ようというスケベ心を持ったた全員にあると思う。もっと範囲を狭めれば、自分の家族のリスクを管理できなかった遺族にあると思う。
 私が家族連れでその場に行き、私の家族が事故に巻き込まれて死んだとしたら、私が責めるのは私である。何故危険に気がつかなかったのか? 歩道橋に押しかける群衆の勢いを見れば、その先に何が起こるかまではわからなくても、極めて危険であることぐらいは判断できたはずではないか。どうして行くなといえなかったのか? 

 ところが、遺族と、検察審査会と、マスメディアはそう考えないらしい。 
 彼らは、群衆を警備、誘導していた警察に責任があると主張した。

 一面、正当な首長にも聞こえる。が、よくよく考えると、それって、究極のお上頼みではないか。お上のいうとおりにしていればすべてはうまくいく。だから皆さん、お巡りさんやお役人や、とにかく偉い人の話は素直に聞こうじゃありませんか。いわれたとおりにしようじゃありませんか。あの人たちは、私たち庶民を守るためにいるのです!

 私は、そうかあ? と思うが、彼の主張はそうである。

 そして、いつもはちゃんとやってくれているのに、今回は的確な指導をしてくれなかった。それってひどいじゃない? お上を信じてきた私たちはどうなるのよ? 信じて裏切られることの辛さって、わかる?

 まるで小学生の不平不満、泣き言であるとしか、私の耳には聞こえない。

 それに、だ。我を忘れた群衆ほど制御できないものはない。だから、時折革命が成立したりするのだが、それは別として、凶暴化する群衆を鎮めるために使われるのは、映画などで見る限り、武器である。
 マイクで怒鳴っても従わない。後ろから押されて前に出てくる人間を止める手立てはない。そのようなとき、映画では空に向かって銃を発射するではないか。その銃声を聞いて、群衆は初めて我を取り戻す。

 現場にいたのではないから正確なことはいえないが、当日の事故現場は、そのような状況に近かったのではないか?
 なのに、日本の警察官は、そのようなときにも拳銃を発射することはない。してはならないのだ。では、その日、その時、その場にいた警察官として何ができたか? 警察官を指示する副所長はどのような指令を出せばよかったのか?

 
 決して責任をあいまいにするつもりはない。誰かが何かをしたために、あるいは必要な何かをしなかったが故に起きた事故なら、いくらでも責任を追及する。
 だけど、この事故で責任を追及できるか?

 朝日新聞に、甲南大法科大学院の渡辺修教授の談話があった。

 元副所長も元地域官も協力して事故を防ぐべき義務があったと考えていたが、判決では認められなかった。それでも検察審査会は今回のように、検察が不起訴にした警察官による犯罪や政治家の犯罪などを拾う役割がある。強制起訴制度と市民の判断によって、闇に包まれていた事件が起訴され、真相解明の場ができたことは評価できる。

 これで大学院教授とは恐れ入る。このような下らぬ談話を掲載する朝日新聞にはさらに恐れ入る。

 検察審査会、強制起訴制度の問題点は、小沢裁判で明らかになったっと思っていた。しかし、そのような現実を、象牙の塔にいらっしゃる方は馬耳東風と受け流してしまわれるらしい。意味のない裁判で税金が無駄に使われることにも関心がないのだろう。この方、リーガル・マインドをお持ち合わせになっているのだろうか?

 もう一度大学で学ぶことがあったとしても、このような教授の下で勉強することだけは御免である。
 いや、こんな教授に

 「あんた、アホちゃうか」

 と面と向かって指摘するために大学に行くのも楽しいかもしれないなあ。

 的確な判決であったと思う。

 

前の日誌                             
無断               メール