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 2012年4月7日 ホント

 大変な1週間だった。
 
 肺炎寸前の次女の救出に横浜まで車を飛ばしたことは前回書いた。翌4月1日、瑛汰と映画鑑賞に出かけたのも報告済みである。

 2日は年度初めで、大幅に入れ替わった群馬県下の仲間たちと顔を合わせるべく、夕方から前橋に出かけ、会議のあとみんなで食事兼飲み会となった。

 それだけならたいしたことはない。
 飲み会を終えて自宅に戻ったのは深夜すぎである。先に寝ていた瑛汰の横に潜り込み、すぐに眠りに落ちた。3日朝目覚めたのは7時過ぎだった。前夜の酒がやや残り、おまけに少しばかり寝不足だった。
 そこに知らせが来た。

 「叔母さんが死んだ

 九州の弟からである。
 叔母とは、父の妹のことだ。もう10年ほど入院を続け、3月18日に99歳になっていた。だから、いつ身罷っても不思議ではない。現に、1ヶ月ほど前から食事もできず、意識もあまりはっきりしないという報告を受けていた。延命装置に生かされていたのである。だから、いつXデーが来ても不思議ではなかった。やっと来たか、と逆におめでたいぐらいである。

 とはいうものの、タイミングというものはある。
 肺炎になりかけて回復過程にある次女が来ている。その体調は十分ではない。瑛汰と璃子の負担はできるだけ私が引き受けてやらねばならない。
 おまけに、二日酔い寝不足である。こんな時に、と思わぬでもない。

 が、我が国の慣習では、村八分にして付き合いを断っても、火事と葬式だけは付き合う。人が死ぬとはそのようなことである。泣き言は言っておれぬ。

 「九州に帰る。用意をしてくれ」

 そういう私に、次女は

 「だったら、私も横浜に帰る」

 といいだした。翌4日には旦那が迎えに来る予定である。また体調不十分なのだから桐生にいて体を休めたら良かろう、というが、聞かない。恐らく、わが妻女殿の体を思い遣ってのことだろう。
 
 一度言い出したら聞かない娘である。仕方なく、10時過ぎに次女、瑛汰、璃子を乗せた車で横浜に向かって出発した。横浜の自宅に車を置き、羽田から福岡まで飛ぶ。そこから大牟田まではバスである。

 走り始めて、ふと思いついた。この日(3日)は平日である。であるから、首都高速は渋滞しているに違いない。昼食時に横浜までたどり着けない危険性が高い。

 「だから、高速のサービスエリアで早めの昼飯を食おう」

 11時半頃、蓮田のサービスエリアにより、寝ていた瑛汰を起こして昼食に出た。璃子は寝込んで起きず、次女は

 「私は車にいるから」

 という。
 私はエビ天うどん、瑛汰はカレーライスを頼み、車で待つ次女と璃子にはおにぎりを4個買った。
 えっ、蓮田のうどんは美味いかって? 
 とにかく、空腹を押さえるためだけの食事である。味は2の次だ。そして、食べたうどんもカレーも3の次、4の次でしかなかった、とお答えしておく。

 横浜に向けて再び走り出し、次に気になったのは風である。この日、低気圧が異常に発達し、全国的に台風並みの風が吹く予報が出ていた。

 「飛行機、飛ぶのかな?」

 と考えていると、妻女殿から次女に電話があり、

 「お昼のニュースで、飛行機は飛ばないっていてるんだって」

 一難去ってまた一難。が、ここまで来たら、とりあえず横浜まで行くしかない。

 午後1時半過ぎに横浜に着いた。早速、インターネットで飛行状況を調べてみる。が、よく分からん。

 「とりあえず、羽田まで行くわ。飛んだら乗るし、飛ばなかったらここに戻る」

 タクシーを呼んで京急川崎駅まで。そこから電車で羽田である。


 着いてみると、午後5時以降の便はすべて欠航していた。乗れるのはそれまでである。チケットカウンターにできた列に並んだ。なかなか進まない。航空会社のお姉ちゃんがそばに来たので、

 「4時の便に乗り単打が、このままでは遅れそうで」

 と話しかけると、いきなり列の一番前に並ばせてくれた。美しく生まれついた男の特権を行使してしまった。ゴメン。

 無事チケットを購入し、持ち物検査も終えて出発ゲート前で待つのだが、4時を過ぎても搭乗が始まらない。風の影響で遅れているのであろう。機内に入ったのは4時半過ぎ。離陸したのは5時を回っていた。

 強風の中での離陸である。機体は大いに揺れた。が、無事に雲の上に出て蓋すら福岡空港を目指して飛ぶ。

 着陸態勢に入った。時計の針はもう7時近い。途中、何度もエアポケットに落ちる。下りのエレベーターで味わう、全身の重さがフッとなくなる嫌な感覚は何度も襲ってくる。

 「我慢だ、我慢」

 とひたすら念じていると、急にからだが座席に押しつけられた。窓から外を覗くと、何と飛行機が上昇し始めている。

 「着陸態勢に入りましたが、気流が悪く、飛行機の制御プログラムが働いて機は上昇を始めました。間もなく、今一度着陸を試みます」

 へーっ、最近の飛行機って、気流が悪くて着陸が危険になると、自動的に上昇するのか。これじゃあ、墜落させる方が難しいよな。
 なんだか、安心した。

 空港から出たのは7時40分頃である。バス乗り場にい行くと、大牟田行きのバスは8時5分に出る。まず切符を買い求め、

 「そういえば腹が減った」

 と、空港内でラーメンをすすった。
 味? そんなことを考えている場合ではない。食べ終えても、考えていたらこんなものは食べられなかった、ただ空腹感がなくなったと思っただけである。


 大牟田に着いたのは8時半過ぎ。弟の子供が車で迎えに来てくれて、そのまま斎場に向かった。

 「いや、遅れてすまん。なにせ、風がひどくて。で、ビールくれ」

 えっ、ビール? という空気がその場に漂った。弟が口を開いた。

 「おい、ビールば買いに行け。そっで、焼き鳥も買(こ)うてこんか」

 命じられたのは2人の甥っ子であった。そうか、こいつらが買い物を済ませて戻ってくるまではビールも食い物もなしか。そういえば俺、朝飯は普通に食ったが、昼はエビ天うどん、夜はラーメンだけなんだけどなあ。
 ま、緊急事態だから仕方ないか。

 やがて、ビールと焼き鳥で酒盛りが始まった。

 「ところで、何時頃家に帰るの?」

 こちとら、二日酔いと寝不足の身である。焼き鳥で空腹感を抑えたあとは、できることなら早く布団に入って眠りたい。

 「うんにゃ。今日は朝までここにおっと(いるのだ)」

 ……。
 そういえば、お通夜か。そうか、お通夜とは文字通り、遺体の置かれた場所で夜通し起きていることなのか。

 が、眠いことは眠い。

 「おい、お前たち、後退で朝まで起きてろよ」

 しゃべり疲れ、甥っ子2人に命じ、斎場に用意された布団に潜り込んだのは3時半頃だった。


 「おい、朝飯食いに行こうか?」

 4日午前8時半頃目をさました私は、弟に呼びかけた。

 「うんにゃ(いや)、ここに弁当の来っと。9時半頃たい」

 いや、俺は前日、ろくなものを食べていない。だから、胃袋が悲鳴をあげている。なのに、これから1時間も待つのか?

 待った。来た。弁当の蓋を開けた。豪華である。ご飯の占める面積は弁当箱の約6分の1。あとはすべておかずである。なのに、何となく違和感を持った。

 「おい、この朝飯、アジの開きとか、ししゃもとか、目刺しとか、そんな、朝食につきもののものが一つも入っていないが……」

 煮豆がある。コンニャクの刺身がある。がんもどきがある。野菜の煮付けがある。天ぷらを全部ひっくり返すと、全部野菜だった。

 「こんなもんで飯を食う?」

 あ、そうか。これは精進料理なのだ。肉や魚は食してはならぬのである。そういえば、数時間前には焼き鳥を方張りながらビールを飲んだのになあ。
 いずれにしろ、これじゃあ食欲わかないよなあ。それに、朝から天ぷらでは油脂の取りすぎになりかねないではないか? と文句を言っても誰も取り合ってくれそうにない。とりあえず食べられそうなものを胃袋に放り込んだ。
 俺、いつになったらまともな食事ができるんだ?


 亡くなった叔母は、まあ、あまり幸せな一生を送った人ではない。ずっと嫁がず、仕事をしながら私の祖父母と暮らしていた。
 縁あって嫁いだ先は、田川市で建設会社を経営する社長さんだった。その後妻である。先妻の子はすでに成人している人ばかりだった。だから、今でいえば「歳の差婚」だ。

 だから、早くに旦那が死んでしまった。2人の間に子供はできなかった。それもあって、死んだあとは籍を抜きいて生家に戻り、99まで生きた。

 彼女の父、つまり私の祖父は、聞くところによると土建屋である。大牟田市は石炭で栄え、石炭とともに衰退した町である。祖父の現役時代は、その絶頂期でもあった。

 「あの、三井炭鉱のいちばん高か煙突は、爺ちゃまが上に上って作らしたっちゃけん、よー覚えとかんとでけんばい」

 祖母の自慢話であった。そして、その勢いを借りて、祖父は市会議員を務めたということだ。

 だからであろうか。祖母も叔母も気位が高かった。

 「爺ちゃまのげんきやったころは、毎日のごつ(ようにお客さんの来なはったったい。そしけん(それだから)、毎日戦争たい」

 客をもてなすにに忙しかったのだろう。なにしろ、10畳間が2部屋続いてあった。間のふすまを取り払えば20畳。ここが宴会場だったという。

 毎日戦争。それは、それを裏で支える女たちの誇りでもあった。夫は、父は、それだけの地位にいる。自分たちがそれを支えている。それが気位の高さにつながった。
 我が父の代はろくな人材が出ず、没落した。だから、私は

 「あんたが安藤家ば再興せんとでけんとたい」

 といわれ続けた。いわれ続けても、一向にその気にならなかったのは、私の特性である。

 そんな叔母は、私を可愛がってくれた。子供がなかったこともあるのだろう。
 田川から帰ってくるときは、抱えきれないぐらいの土産を持ってきてくれた。それが楽しみだった。私を福岡に呼び出し、寿司や蕎麦を振る舞ってくれたのも叔母である。田川の嫁ぎ先に私を呼び出したのも叔母だ。自分にも、こういう親族がいると、嫁ぎ先の人々に見せたかったのだろう。
 嫁ぎ先で受けていたであろうプレッシャーに向けた戦いであったのかも知れない。
 私は何も分からず、叔母に甘えるだけであったが。


 葬儀は4日の正午からであった。遺族として客を迎え、私が挨拶した。出棺は午後1時。

 「申し訳ないが、焼き場まで付き合っていると帰れなくなる。これで失礼する」

 バスに乗り、福岡空港へ。着いたのは3時過ぎだ。腹減った。

 「よし、まともな者を食ってない分、豪華な昼食にしよう」

 寿司屋に入った。寿司は1000円ぐらいからあった。そんなものは豪華でも何でもない。メニューを見た。一番高いのは4800円。びびったのは私の器量のなせるワザであろう。

 「いくら何でも。昼飯だもんなあ」

 一つ落とし、3600円の寿司を頼んだ。確かに美味かった。が、あえていうなら、しゃりの温度と魚の温度がミスマッチだ。魚が冷えすぎている。
 空港の寿司屋である。客足はそれほど盛んではない。必然的に、魚は冷蔵保存する。そうしなければ傷んでしまう。
 その冷蔵庫から出したばかりの魚を切り、しゃりにのせる。どうしても魚の方が冷たすぎる。それが食感に響く。


 羽田に着いたのは午後6時半過ぎ。次女の旦那、瑛汰、璃子が車で迎えに来てくれた。
 横浜に1泊して、5日朝桐生へ。

 
 というわけで、私は疲れた。5日はパソコンを見るのも嫌だった。それなのに、夜は仕事が入り、その上、仕事のあとで食事と酒に誘われ、よせばいいのに受けてしまった。
 6日は、妻女殿の定期健診。朝から前橋日赤までの専属運転手を務め、午後3時頃戻って仕事。夜、日誌を書こうとパソコンに向かったものの、気力がなえてしまって早々と布団に入った。
 私も、これしきのことで疲れを感じる年齢になってしまったということである。


 明日はお茶会に招かれている。

 「いいよ、お茶なんて飲めばいいもので、茶道なんて堅苦しいの、俺、嫌いだから」

 と何度も断ったのに、どうしても来いという。挙げ句、

 結構高い弁当頼んだからさ、食べにおいでよ」

 誘ったのは、元有力者のO氏である。
 よーし、お茶なんてがぶ飲みしたやるからな!

 

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