●日誌一覧

シネマらかす

グルメらかす

音らかす

旅らかす

スキーらかす

事件らかす

 2011年5月27日 英雄

 福島第一原発の事故が、時代の英雄を作りつつある。
 吉田昌郎福島第一原発所長
 この人、小気味よい。

 事故のあと始まった1号機への海水注入が、菅直人の横やりでいったん中断された。つい昨日まで、みんなそう思っていた。

 「真水を海水に代えたら再臨界が起こる」

 との斑目原子力安全委員長の進言で、菅直人が止めたといわれた。斑目さんは

 「私はいっていない」

 と抗議し、

 「再臨界の危険性はゼロではない」

 といったということになり、

 「ゼロではないということはゼロだ」

 などという、禅問答にしては次元の低い話があった。

 菅直人が止めた、ということを前提に、自民党の谷垣さんは、最高責任者である菅直人の責任を国会で厳しく追及した。

 いった、いわないのやりとりが繰り返され、責任逃れの言葉が飛び交い、さてどうなることかと思っていたら、菅直人はサミットとやらで日本を逃げ出した。

 しばらく休戦か、と思っていたら、

 いや、実は海水の注入は中断していませんでした。私の独断で海水注入を続けていました。

 といったのが吉田所長である。
 いや、痛快だ。

 久々に、痛快な男の決断を見た、と思っていたら、永田町とやらで巣くっていらっしゃる方々や、メディアの方々はどうも違うらしい。

 自民党の谷垣総裁は

 「(政府や東電の)事実説明が迷走しており、開いた口がふさがらない」

 とおっしゃり、自民党の幹部の方は

 「総裁が恥をかかされた。落とし前をつけなくてはならない」

 と凄まれたのだという。

 迷走しているといわれる政府だって、新たな事実にびっくり仰天するばかりのようだ。枝野官房長官は

 「事実関係を正確に把握して報告してもらわないと対応に苦慮する」

 と不快感を表したというし、政府高官は

 「(東電の迷走は)『さもありなん』だ。首相がもっと早く東電に乗り込むべきだった」

 とおっしゃったらしい。ああ、また東電に責任を押しつけるのね。
 以上は、すべて朝日新聞朝刊からの引き写しである。

 だけど、永田町あたりの混乱ぶりを報じるメディアだって、やっぱり混乱している。見出しを見るだけで、混乱ぶりは一目瞭然である。

 「海水注入 実は継続  福島第一 所長独断 報告せず」

 これは朝日新聞1面の見出しである。ここには、朝日新聞としての判断がどこにもない。こんなことがありました、と報告するだけの見出しである。逆に言えば、吉田所長の独断専行をどう評価していいのか、判断を放棄したともいえる。

 2面に移ると、やや色が出る。

 「現場 原発情報隠蔽」

 「注水中断 所長も会議に参加」

 「一転 東電本社を黙殺」

 「また訂正 信憑性に疑い」

 「政権 振り回され」


 以上ですべてである。ここから透けてみえるのは

 「隠すなんてずるいじゃん」

 という子供の不平不満である。加えて

 「こんなことするんだったら、もうあんたのこと、信用しないからね」

 という捨て台詞まである。自分の頭で考えられなくなったメディアは、とうとう子供状態まで退化するのか。



 冷静に考えよう。

 海水の注入が中断されなかったのはいいことか、悪いことか?

 これが、最初に来るべき問いである。そして、恐らく99%の人が

 「いいことだった」

 と答えるに違いない。であれば

 「吉田所長、よくやった!

 あなたは権力や地位を持つ阿呆どもを向こうに回して、獅子奮迅の働きをした、という話である。その他はどうでもいい話なのだ。


 その、どうでもいい話に移ろう。
 吉田所長は、なぜ独断で、正しい選択をしなければならなかったのか?

 朝日新聞によると、1号機への海水注入が始まったのは事故翌日の3月12日午後7時4分。ところが、7時25分になって、官邸にいた東電幹部が、海水注入について

 「首相の了解が得られていない。議論が行われている」

 と東電本社に伝えてきた。そこで東電本社と発電所がテレビ会議を開き、海水注入の中断を決めた。吉田所長ももちろん会議に参加していた。発言はしなかったという。

 経過は以上である。

 さて、私の見るところ、どうでもいい話の神髄は、上にいる人たちの無責任さである。
 
 斑目さんの話を真に受けるとすると、その頃官邸では、菅直人が

 「海水を注入して再臨界の危険はないのか?」

 とわめいていた。それに対して斑目さんは

 「ゼロではない」

 と答えた。それで政府としての判断が遅れた。
 さて、菅直人始め、官邸の連中は

 「真水を海水に代えたら、なぜ再臨界が起きるのか?」

 と聞いたのだろうか?

 私が知る限り、炉心で臨界を起こすには

 1)燃料棒が1.5cmの等間隔に配置されていること
 2)水で充たされていること
 3)制御棒が抜かれていること


 の3つの条件が必要である。冷やすためには水が必要である。だが水は臨界の条件の1つである。それなら、真水と海水にどのような違いがあるのか。私なら問いただしたはずである。

 いずれにせよ、国の最高責任者どもが迷ったことは疑いない。迷うことは仕方がない。だが、迷う時間はできる限り短くしなければならない。短くするためには的確な問いを発しなければならない。
 官邸の連中、頼りない。

 さて、東電はどうであったか。
 暴走しそうな原発を鎮めるには、冷やさねばならない。海水で冷やせば、恐らく復旧はできず、廃炉を覚悟しなければならない。それでも、目下の急務は原子炉を暴走させないことである。そう考えて海水の注入を決めた。決断が遅かったのではないか、との批判は、いまは横に置く。

 何しろ、原発を廃炉にするということは数千億円(だったかな?)を捨てる決断である。重い決断であったはずだ。重いものは、普通は動きにくいものである。下手に動かそうとすると腰を痛めてしまう。私の経験則である。
 なのに、官邸に行っていたへなちょこ元役員のご注進で揺れ動く。

 「何? 首相が了解していない? それは……。だったら、海水注入を中断するか?」

 おいおい、ちょっと待て、って。
 そりゃあ、菅直人は東京工業大学を卒業して、原発に深い知識を持つと自負しているとの報道もあった。が、だ。それでも、専門家から見たら、所詮素人に過ぎない。
 いまは、大惨事を招くか招かないかの分水嶺である。その危急存亡の時に、相手がいくら首相だからといって、素人の判断に専門家が頭を垂れて言いなりになるのか? 高給を取って偉そうな顔をするのは、権力者にごまをするためなのか?

 東電の原子力村の村長さんといわれる武藤栄副社長は

 「原子炉を冷やすという技術的な判断としては(吉田所長の行動は)妥当だった」

 と言ってのけたそうだ。ねえ、村長さん、だったら、なぜ村長のあんたが、3月12日のテレビ会議で

 「菅のバカタレが何をいっても構わん。俺が責任をとる。海水の注入を継続しろ!」

 といわなかったのか? なのにいま、評論家面して

 「妥当だった」

 って?
 あんたは、態度は偉そうだが、単なる腰抜けに過ぎない。

 以上が、どうでもいい話である。


 などと考えていて、少々ゾッとした。
 今回の事件、我々が信じて疑わない民主主義の欠点をあぶり出したのではないか?

 民主主義とは、多数による少数の支配である。多数に支持された政党、人物がすべての権限を持つ。
 民主主義とは、手続きである。事前に定められたルールに沿って手続きを踏まない行動は排除されねばならない。

 だけど考えてみよう。吉田所長が民主主義のルールに則り、国の最高責任者である菅直人の決断を待っていたら何が起きたか?
 民主主義のルールに則り、テレビ会議で決まった事に従っていたらどうなったか?
 これではいけないと上申書を書き、上司の決裁を待っていたら、暴走したくてたまらない原発は待ってくれていたか?

 原発の被害をいまの水準で押しとどめているのは、

 「正しいことは正しい!」

 と民主主義のルールを無視して突っ走った吉田所長のおかげではないか?

 吉田所長には、格納庫への窒素注入を指示する本社幹部に

 「もうやってられねえっ!」

 と叛乱を起こした過去もある。上下関係や手続き論より、正しさを優先する人のようである。

 
 我々は少数が力を背景に支配する時代から、多数が選んだ代表者が統治する世に進化してきた。確かにそれは進化だと思うが、それが進化である以上、いまにとどまってはならない。
 私は吉田所長を、今の時代における一服の清涼剤と感じる。いまの、多数が指示すれば何でもいいというポピュリズムから脱する道は、少数者の、個人の

 「正しいものは正しい!」

 という覚悟に寄って立つ行動なのではないか。
 私は吉田所長の友になりたい。

 

前の日誌                               next
無断               メール