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 2010年1月20日 8針

 ってしまった。
 といっても、洋服ではない。浴衣でもない。
 私に、そのようなものを縫う技術があれば、今頃職人になり、自分が作り出した美しい衣服が、より美しい女性にまとわれ、美しさをいっそう引き立てている姿を思い描きながら、仕事を楽しんでいる。

 縫ったのはである。正確に表現すると、右足小指の裏側の付け根である。しかも、縫ったのは私ではない。縫ったのは桐生康生病院の救急医で、私は縫われた立場である。しかも、8針も。

 昨夜8時頃だった。風呂に入り、晩酌、夕食も済んだ。さて、そろそろ日課のギター練習に取りかかるか。
 居間に場所を移した。

 目にとまったものがある。脱ぎ捨てたズボンである。風呂にはいるとき脱衣場で脱ぎ去り、風呂から出て居間のソファーに投げ出しておいた。このズボンがここにあっては、ギター練習の妨げになる。私が座る場所がない。

 床暖房まで入った和室に置いてあるコートかけに引っかけてこよう。思い立って和室に入り、ズボンをコート掛けに引っかけたときだった。
 
 ツルリ。

 布団の上で左足が滑った。

 足が滑る。摩擦係数と、接触面にかかった力の関係がすべてを決める物理現象である。それ自体は何の不思議もない。日常的に発生することである。

 左足が滑る。即座に、本能的に、右足がカバーに飛び出して足下を踏みしめ、崩れたバランスを取り戻して体全体が倒れないようにする。誰が教えたわけでもないのに、体は本能的に反応する。
 先天的に、ある必須タンパク質を体内で作れない体質の人の体内では、ほかのタンパク質が必死になって欠損したタンパク質の役割をカバーしようとするそうだ。生きものとはそのようにカバーし合いながら生命をつなぐ。まさに神秘の働きだ。

 だから、この際、脳が指令を出す前に(ひょっとしたら出したのかな?)右足がカバーに出動したのも十分頷ける。攻めるべき筋合いの行動ではない。

 「痛っ!」(これで、いてっ、と読めるでしょうか。やっぱり、つっ、って呼んじゃうでしょうか)

 右足の小指に痛みを感じた。見ると、どうやら横たわっていたギターケース(あの、Martin D-41が入っている!)を踏んづけてしまったらしい。

 ギターケースを、まず見る。よかった、どこも壊れてないようだ。遅れて、痛む右足小指に目をやる。

 「あれれっ」

 が出ている。

 「やべー、切っちゃったよ。どこを踏んづけた?」

 ギターケースを再び見る。なにしろ、Martin D-41なのだ。
 尖ったところは見あたらないし、血が付いたところもない。なのに、不思議なことに血は流れ続け、畳の上にしたたり始めた。

 「とりあえず、傷の手当てをしなきゃ」

 洗面所に向かった。まず、傷口を綺麗にするのが、手当のとっかかりである。
 洗面台に右足を乗せ、蛇口からの水をかける。ピリッと痛む。

 「あれっ、傷口、意外と深いぞ。血を止めなきゃならないけど、こりゃあティッシュでは間に合わないな。おーい、キッチンペーパー取ってくれ」

 キッチンペーパーで傷口を押さえながら、ダイニングルームに戻る。

 「ちょっと深いんで、ガーゼ。それにワセリンを厚めに塗ってくれ」

 妻に命じる。出てきたガーゼを傷口に押し当てるが、にじみ出した血でたちまち真っ赤になる。

 「サランラップで巻く?」

 この提案に乗った。何しろ小指の、しかも裏側の付け根だから、サランラップを巻くといっても容易ではない。食べ残したサツマイモをラップでくるむのに比べれば、段違いの難度である。
 とはいえ、いまのところやることはそれしかない。見た目は気にせず、包むことだけに全力集中する。巻き終わると、テープで止める。まあ、これでいいか。さて、ギター練習に取りかかるか。

 「ねえ」


 妻がいった。

 「ひどく深かったわよ。病院に行って縫った方がいいんじゃない? 足利の日赤とか。救急車呼ぼうか?」

 いや、そこまでしなくても、と思うが……。

 「だって、まだ血が止まらないじゃない」

 ま、いわれてみればそうだ。この程度で失血死するとは思わないが、血が止まらないまま布団に入れば、布団が真っ赤に染まる。妻が心配しているのは、そのあとの洗濯か?
 それに、患部は結構伸びたり縮んだりする場所である。傷の自然治癒が難しい場所であることも確かだ。

 「ま、念のため、ということであれば」

 ネットで夜間診療中の医者、病院を探し、電話をした上でタクシーを呼んで桐生厚生病院に向かった。

 「どうしました?」

 40前後に見える医者である。

 「いや、布団の上で滑っちゃって……」

 と事件の概要を話す。

 「じゃあ、患部を見せてもらいましょうか」

 あれほど苦労して巻き付けたサランラップが、遠慮会釈なくはさみで切り開かれる。人様の作業の成果には、もう少し敬意を払ってもらいたいものである。

 「先生は泌尿器科が専門なんですって?」

 電話をした際に仕入れた知識を披露した。というか、おいおい、あんた泌尿器科だろう? 外科医じゃないのに大丈夫なのか? という不安を言外に匂わせた。
 勘のいい医者だった。

 「泌尿器科ってね、腎臓摘出とか、前立腺の摘出とか、結構切るんですよ。外科だけがメスを持つんじゃないんだから」

 ほほう。あまり医者にかかることがない私としては初めて知った。そうか、だったらこの医者でもいいか。

 「いやあ、これは深いなあ。ねえ、小指動きます? 感覚あります?」

 神経を傷つけたのではないかと疑っているのだろう。幸いなことに動くし、感じる。

 「いやあ、この傷でよく小指がつながっているよね。深いなあ」

 ……。

 「こりゃ、縫わなきゃだめだね。うん、よく小指がつながってる

 おいおい、そりゃあないだろう。

 「あの、医者の役割って、患者を安心させることだよね。患者を震え上がらせることじゃない。それは新興宗教の教祖に任せなさいよ。それに、私は軟体動物じゃない、っての。私には、幸いなことに右足の小指にまで骨がある。その骨が切れてるわけでもないのに、小指がちぎれるわけないじゃない」

 患者が医者に、医者のあるべき道を説く。人体についての正しい知識を授ける。なんだが立場が逆のような気がしないでもないが、まあ、この医者、これくらいってやらないと。

 「でも、傷がすごく深いんだもんなあ。さて、縫いますか」

 まあ、私はまな板の上の鯉である。医者の判断に異を唱える立場にはない。が、異を唱えない範囲なら……。

 「3針ぐらい?」

 おずおずと聞いた。

 「3針? 冗談じゃない。そんなんじゃ足りませんよ。少なくとも8針は縫わなきゃ」

 8針……。

 「あのー、私ね、幸いなことにこれまで入院したことはないし、傷を縫ってもらったこともないんです」

 「ほー、そんな健康体に生まれついたんですか。それは良かったですね」

 「いや、だから、その、私の玉体にはまだブラック・ジャックの顔みたいな部分はないわけで……」

 「じゃあ、今夜が初体験ですな。名誉なことです」


 ……。

 ベッドにうつぶせに寝かされた。ベッドが低すぎて治療しにくいということで、ストレッチャーに移された。

 「あの、ナイロンの糸持ってきて」

 医者が看護婦に声をかけた。ナイロン?

 「それだと、抜糸が必要になりますよね。できれば、自然に溶けて抜糸の必要がない糸なんかがあると嬉しいんだけど……」

 あれば嬉しいのではない。そうしてほしいのである。痛みはできるだけ少ない方がいい。

 「だめです」

 言下に拒否された。

 「足って、汚れが沢山つく場所です。溶ける糸だと、溶けるときに糸についた雑菌まで体内に運ぶんで適当ではありません。足には使いません」

 あっ、そう。

 「でも、針を刺したら痛いんでしょうねえ。しかも8針も」

 「そりゃあ痛いですよね。縫うんだもん」

 ……。

 「局所麻酔はしますけどね」

 ちくりとした痛みが患部から伝わった。麻酔薬を打ってるらしい。

 「傷みますか?」

 「はあ、おかげさまで」

 「麻酔、大丈夫ですか?」


 打つ前に聞いてほしかった。

 「ま、歯の治療の際も打たれましたからね。それで痛みを感じることなく歯の治療をしてもらったから、大丈夫でしょう」

 「いや、私は歯医者ではないですからねえ」

 どこまでも口の減らない医者である。いや、患者もそうか。

 「先生」

 「はあ」

 「治療に使う縫い針って、確か釣り針のような形をしているんですよね」

 「よくご存じですねえ」

 「私、海釣りをやってたんですが、時々ぐさりと刺さっちゃうんですよ。ところが、ほら、返しがあるでしょ。だから、刺さっても抜けないんです。刺さったら抜けないように返しがあるから当然なんだけど。そんなとき、どうやって抜くかわかります?」

 「いや、経験がないんで」

 「反対に抜くんですよ」

 「でも、糸を結ぶところは膨らんでるでしょ。痛そうだな」

 「あの部分をペンチで切るんです。そうするとすんなり抜ける」

 「ああ、なるほどね。でも、大丈夫ですよ。いま使ってる針には返しはありませんからペンチはいりません」

 縫合手術の最中、このような訳のわからない会話を交わした医者と患者がほかにいたかどうか。寡聞にして私は知らない。

 無駄話をしているうちに、縫うのが終わったようだ。

 「先生、ここ包帯します?」

 看護婦が医者に聞いている。

 「うん、巻いといた方がいいねえ」

 看護婦さんが包帯を巻き始めた。あまりうまくない。

 「先生、ちょっと絆創膏を取ってくれます?」

 へーっ、この病院は看護婦が医者を使うんだ。

 「さすがにかかあ天下の土地柄ですな」

 思わず口に出たが、それが2人に伝わったかかどうか。

 薬をもらい、支払いを済ませてタクシーを呼んだ。念のために痛み止めも処方してもらったが、薬を飲みたくなるほどの痛みはない。
 まあ、順調に回復しているのであろう。


 困ったことが1つある。靴が履けない
 この程度のけがでは仕事は休めない。仕事をするには外に出なければならない。昨日から小春日和が続いているとはいえ、まだ1月である。すぐに冷え込みがやってくる。素足で外出する? それに、車の運転はどうする? まさかサンダルではできないよなあ。

 あれこれ考えて思いついた。
 ストラップのついたスポーツサンダルを履こう。
 素足でなく、靴下をはいてスポーツサンダルで出かけよう。これなら足下の寒さも多少しのげるし、車の運転だってできる。
 下駄箱を開けたら、昨夏使っていたスポーツサンダルが出てきた。季節感はチグハグだが、しばらくこいつにお世話になる。

 本日は午後から、ブラックジャックの顔を右足小指の裏に貼り付けたまま、私は出かける予定である。

 

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