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 2008年7月20日 続シリーズ夏・その3 市長に会った

 朝は凌ぎやすかった。昨日の日誌で予告したがごとく、犬の散歩でかいた汗をシャワーで洗い流し、朝食をすませた後、車を洗った。
 高圧洗浄機で汚れを吹き飛ばす。残った水滴を拭きあげる。たったそれだけの、時間にして1時間足らずの作業なのに、終わってみれば汗まみれである。浴室に駆け込み、再びシャワーを浴びた。
 すかさず妻から弾が飛んできた。

 「そんなに汗だらけになるのなら、シャワーを浴びる前にやればよかったのに」

 論理的にはその通りである。だが、犬の散歩から戻った私は全身に汗をかいていた。そのままで朝食をとれというのか? 君は、そのような不快な暮らしを亭主に強いるのか?
 それに、である。このピカピカに磨き上げられた車の、私は専属運転手である。今日は妻を乗せて次女と瑛汰をお迎えに行き、川崎のさいか屋までハンドルを握る。着けば、お2人がお買い物をなさる間、私は瑛汰の子守である。そして、ひたすらお買い物の終了を待つ。哀れな存在ではないか。
 (本日の瑛汰のお買いあげ:落書き帳、ボールペン、肉じゃがコロッケ、イチゴジュース。すべて私の支払い)
 1日にシャワーを2回浴びる。お抱え運転手にはその程度の自由もないというのか? ふざけるな!
 
 いや、これは心の内で思っただけのことである。思いの丈を口にする勇気はとても持てない。安全第一、小心翼々、が暮らしの基軸である時間が続きすぎ、すっかり私の習い性になってしまった。今日もその事実を、苦い思いとともに再確認した。


 たかが、といってはいけないかも知れないが、派米少年になったことがこれほどの騒ぎになるとは、15歳の私には予想できなかった。
 新聞記者の取材を受けた。まあ、これは仕方がない。新聞社が大枚の金を使って田舎の少年をアメリカまで連れて行こうというのだ。その社会的、教育的意義を己の紙面で喧伝するのは当然である。かけた金を別の形で取り戻そうという卑しい行為、と受け取られる向きもあるかも知れないが、私は当然のことだと思う。
 だから、それぐらいでは驚かなかった。

 「安堂君、明日市長に挨拶に行くけん、昼過ぎに来てくれんね」

 飛永さんに言われた。すでに夏休みに入っていた。勉強をしない私には時間は有り余るほどある。断る言い訳はない。
 だけど、俺が市長に会う? 時の市長は自民党だった。私は、貧しき暮らしによって、どちらかといえば左がかっていた。社会党、共産党は我が味方である。自民党は人民の敵である。資本化どもとつるんで、貧困を生み出す政治屋の集まりである。そんな集団に籍を置く輩に、俺が挨拶に行く? ふざけるんじゃねえ!
 てなことは考えもしなかった。中学生の私が市長に会う。会ってもらえる。正直、晴れがましささえ感じた。

 「はい、分かりました」

 古い記憶だが、確か私邸を訪れた。書斎のようなところに通された。

 「おお、君が安堂君かね。君のことは飛永さんにいろいろ聞いている。今回は本当によかったね。うちの市にとっても名誉なことだ。これからも何か困ったことがあったらいらっしゃい」

 ということを市長が言ったかどうか、全く記憶にない。私が何を言ったかも覚えていない。自民党の市長にマルクスの革命理論を説かなかったことだけは確かだだが。
 そうなりたいとは思わなかったが、私は市長の前に出て、緊張でコチコチに固まってしまった。15歳の私は、純情を絵に描いたような少年であった。

 飛永さんは、それだけでは解放してくれなかった。
 飛永さんが、商工会議所の副会頭だったことは前回書いた。

 「安堂君、商工会議所で挨拶ばしてもらうけんね」

 私は一介の中学生である。人前で話すことを生業とする者ではない。それに、アメリカに行くことは突然我が身にふってきた幸運である。私は何もしていない。人前で話せるような材料は何もない。このおっさん、人の事情も知らないで……。

 「安堂君、僕ぁ、ライオンズクラブロータリークラブ、だったかも知れない……)ちゅうとばしよっとたい。そこであんたんこつば話したら、連れてこい、ちゅうとやもんね。来て話ばしてくれんね」

 こうして私は、地元の財界人が巣くう集まりで、2度にわたって挨拶をする羽目となる。瞬く間に地元の政界・財界の有力者たちと面識を得ることになった。望んだことではない。会ってみても、彼らの仲間に入りたいとは露ほども思わなかった。
 だが、なぜ飛永さんは私を引き回したのだろう?

 「それは分かり切っている。彼は、自分の力で君を全国10人の枠内に入れた。その実力を地元で見せつけ、あわよくば商売を拡大したかったのに違いない」

 なるほど、そんな解釈も成立しそうである。だが、飛永さんの人となりを多少知る私の見方は違う。

 我が故郷大牟田市の歴史は、「シネマらかす #81 フラガール ― 時代は変わる」で触れた。1960年、三井三池の大争議があり、3年後には458人の命を奪った炭塵爆発事故が起きた。あらゆる面で市を支えてきた石炭産業は、私がアメリカに行った1964年、風前の灯火だった。大牟田市は失意のどん底にあった。
 飛永さんは、そんな町に明るい話題を提供したかったのに違いない。
 ほら、すべてが悪くなりそうだけど、こんな町から全国で10本の指に入る子供が出た。市の未来は真っ暗に見えるけど、きっとこの子たちが未来を作ってくれるさ。下を向いて歩くのはやめようぜ。大牟田市に生を受け、大牟田市で生きてきたことを誇ろうじゃないか。大牟田市の未来に希望を持とうじゃないか。
 人の心は、沈み始めればどこまでも沈む。沈んでいく目から見た景色は、すべてが灰色だ。希望がない。
 だから、沈みつつある人間こそ、希望を持たなければならない。彩色された景色を見なければならない。未来は真っ暗ではないと思えば、新しい知恵もエネルギーも出てくるのではないか?
 飛永さんは、大牟田にそんな夢を持ち続けたのである。そして私はそんな盤面を作るための駒の1つだったのに違いない。
 と思うのである。残念ながら、飛永さんの思いはいまだに実現せず、大牟田市は沈下を続けているが。

 出発の日がやってきた。国鉄大牟田駅から、寝台特急で東京に向かう。もう8月。夏も盛りだった。
 駅のホームに、近くの中学校のブラスバンド部員が整列していた。飛永さんが手配したのである。彼らが音楽を奏で始めた。私を送る音楽らしい。
 10数人のブラスバンド部員の前で、私はじっと立っているしかない。確か、私を壮行する横断幕も広げられていた。暑い。汗が上がれ出す。大きな楽器に息を吹き込むブラスバンド部員たちはもっと暑いはずだ。女の子のブラウスが、肌に吸い付いている。
 そんなことを思いながら立ちつくした。ひたすら恥ずかしかった。私は、こんなに称えられる人間ではない。どうして私が、こんなところに立っているのだろう? 立っていなければいけないのだろう? 列車はまだか? 一刻も早く到着して欲しい。私をここから連れ出して欲しい。

 乗り込んだ寝台特急は、一路東京を目指した。私は生まれて初めて日本の首都に向かった。

 

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