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 2008年1月24日 教育とは

 進学塾の先生が、公立中学校の教室で教鞭を執るらしい。東京・杉並区立の和田中学校である。発案者は、都内公立中学校で初めての民間出身校長である藤原和博さんということになっている。
 平日の夜間、それに休日の週末は学校の施設はまったく使われていない。民間の目から見たら無駄である。これを有効活用する手はないか?
 おそらく、そんなところから始まった。そして、

 この無駄な時間を利用して、進学塾の先生に授業をやってもらったら? 

 というアイデアが生まれた。

 子どもたちは慣れ親しんだ教室で進学塾の授業を受けられる。わざわざ遠い塾にまで出かける必要はない。なにせ、学校の授業だけでは、偏差値の高い高校には進めない。あこがれの高校に進みたいという子どもたちの願いを尊重しよう。進学に書けてはプロである著名な進学塾に出張授業してもらおう。

 塾にとって見れば、学校が生徒を狩り出してくれるのだから、営業努力・費用なしに塾生を集めることができる。自前の設備は不要だから、教室の減価償却費、維持費、水道光熱費などが不要だ。必要なコストは先生の人件費だけ。塾としてはこれほど安全有利なビジネスはない。加えていえば、公立中学校ご採用の箔も付く。

 それが、生徒、いや生徒の親の負担にも好影響を与える。コストが少ないのだから、塾の授業料は安くできるではないか。そして、実際にそうなったようだ。

 遊休設備の活用策が、あちらにもこちらにもメリットをもたらす。見たか、これぞ民間の知恵である。公務員とは、知恵無し人と書くのだ!

 というのがこれまでの流れである。都教委は公教育の公正性の観点から問題がある、平たく言えば、この特別授業に参加できない貧しい家庭の子供たちが可哀想だ、といちゃもんをつけたが、貧しい家庭の子どもの授業料は安くする、ということで矛を収めた。授業は26日から始まるのだそうだ。

 良かったねえ。さすが民間出身の校長先生だ。目出度し、目出度し。
 なのだろうか? どこか変だ、と感じるのは、一度も塾に通ったことがない私の僻みなのか?

 まず。
 この中学校の先生たちは何をしてるんだろう? 塾の講師に進学指導をすべて委ねるということは、この人たちに対する無能力宣言である。
 あんたたちに授業を任せていては、生徒たちは行きたい高校にも行けない。あんたたちはものの役に立たないんだよ。
 ということである。寡聞にして、この中学校の先生から抗議の声が上がったという話は聞かない。自らの教育力のなさを恥じて辞表を提出したという話も聞かない。
 これほど明瞭にダメ出しされて、それを唯々諾々と

 「ご説ごもっとも」

 と受け入れているのだろうか? 
 いやいや、彼らには彼らなりの弁明があるのだろう。想像するに、

 「我々教師は、生徒の基礎学力部分を受け持つのである。塾とは、その基礎学力の上に立って、生徒の学力をさらに伸ばす。役割を分担することで双方がその機能を十二分に発揮できるようになり、生徒への教育が完成するのである」

 てなものではなかろうか? だが、そもそも受験がそれほど大事なことなら、どうして自らの手で、希望高校に入学できるまで生徒の学力を高めようとしないのだろう? 自らの非力さをどうして放っておけるのだろう?

 先生と呼ばれるほどのバカでなし

 という川柳が、ますます真実みを帯びる時代である。あ〜ぁ。

 次に。
 そもそも、教育とは何か? 様々な論、見方、立場はあろう。こと教育に関しては、100人いれば100の教育論があるといわれるのだから。
 その100の内の1つでしかないが、私は

 ある国家目的に添って、次の世代を育てること

 が教育の目的であると考える。ここでいう国家とは、時の政権を意味するものではない。抽象的になる嫌いはあるが、社会、と言い換えてもいい。1億2000万人が住む日本という国を、これからどうしたいのか、どうあったらいいのか、という緩やかな合意のことである。

 和田中学校が採用した教育は、できるだけたくさんの生徒を、できるだけ偏差値の高い高校に進学させるためには、あるいは最適の手段かも知れない。だが、それは国全体の利益につながるか?

 高校も大学も、受験問題には必ず正解がある。受験生は、その正解を探り出さねばならない。そして、正解は1つしかない。正確な記憶と、出題者の出題意図を探り出すテクニックが勝敗を決める。決して

 「私の文章が出題されたんだけど、問題を見たら解答が分からなかった。著者にも正解が分からない問題なんて……」

 などという一部作家の話に関心を持ってはいけない。ひたすらに受験テクニックを磨いた者が受験戦争の勝者となるのである。

 だが、なのだ。実社会には受験秀才の弊害を指摘する声が少なからずある。

 「頼まれて、大学で3コマ授業をしたのよ。そしたら、学生から抗議が来た。『先生は板書きしてくれないから、ノートが取れなくて困る』っていうんだな。卒業後の志望を聞いたら新聞記者だって。おい、新聞記者って、インタビューしながら、相手の話の要点を何かに書いてもらわなければ記事が書けないのかね?」

 ある友人の話である。別の友人は、社内研修の話をしてくれた。

 「ま、仕事だから演壇に立って話すだろ。そうすると、必ず『いまの話は、あとでプリントでもらえるんですか』って質問が来る。『どうして?』って聞くと、『間違ったら大変だから』だって。あいつら、俺がいったことを一字一句正確に記憶しようとでもいうのかねぇ。こちらが求めているのは、俺の話をきっかけに自分の頭で考えることなんだけど、いまの子たちは考えるより覚える方が楽らしい」

 挙げ句は、

 「うちの会社って、東大出が多いじゃない。最近の業績悪化はそのためじゃない? 最近、ライバル社が東大卒の採用を増やしているんだよね。うちみたいになりたいらしいけど、良かった良かった、うちと同じ衰退の道を辿るに違いない、ヤツらも滅びの道に入ったって笑いたくなる」

 教育には、考えなければならないこと、議論しなければならないことがたくさんある。和田中学の一件は、その格好のきっかけになる問題を提起した。
 が、話題になったのは、都教委のいちゃもんだけ。本格的な議論が起きる様子はない。

 それとも、これから始まるのかな?

 

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