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 2007年3月25日 久しぶり

 昨日、妻を伴って立川まで出かけた。
 妻との外出は、すべて車使用となる。足が強くないためだ。ために、休日の私は、妻の専属ドライバーと化す。なのに、専属ドライバーとして受け取るべき給料は遅配の連続で、一度も頂いたことがない。なのに昨日も、渋滞する片道2時間半の道のりを、ひたすら前を見ながらハンドルを握った。
 私は根っからの善人である。

 そのような難行苦行を引き受けたのには訳がある。
 久しぶりに開かれたのだ、岡林信康さんのコンサートが。場所は、立川市の立川市市民会館大ホール。これははるかな道のりを走破するに値するビッグイベントだ。
  我ら夫婦にとってだけかも知れないが。

 10数年ぶりに見た岡林さんは、やっぱり岡林さんだった。頭髪がやや寂しくなったかもしれない。しゃべる声がややかすれていたのも気になった。まあ、それも還暦を越え、長女のみのりちゃんには1歳2ヶ月の子ども(男の子らしい)ができた問い歳月のしからしめるところであろう。
 しっかり年取ってるね、岡林さん!


 

(余談)
フッフッフ。勝った、岡林さんに。
我が家の長女には、すでに2歳3ヶ月をすぎた啓樹がいる。次女みのりにも8ヶ月の瑛汰が。
あんたんとこは、まだ1人? どうだ、参ったか!
参らないか……。

 

 が、歌声は若々しかった。かつてのヒット曲、「山谷ブルース」「流れ者」「自由への長い旅」をポップス風、というより演歌風ににアレンジして歌うゆとりも身につけた。男岡林、だてに年は取っていない。

 「26ばんめの秋」。私の記憶によると、確かヒットチャートで1位になったこともある名曲である。
 ステージにたった岡林さんが歌うこの曲を聴いていたら、不意に我が瞳から水滴が落ちた。岡林26歳の時、ということは私22歳の時にできた曲だ。この曲には、岡林さんの人生がぎゅっと詰まっている。だけでなく、私の人生だって、ちょっぴりはひっかかっているのである。あるいは無駄だったかも知れないわたしの20代はじめの日々が脳裏をよぎり、目玉の裏側に仕込まれた水鉄砲の引き金を引いた。
 私もやわになった。
 時に感傷にふける。それもまたよし、だ。

 市民会館の、どうみても一時代前の日本人の体格に合わせたとしか思えない狭苦しい椅子に身をゆだねて岡林ミュージックに酔いながら、

 「ああ、岡林さんって、真面目すぎるほどに真面目な人なんだなあ」

 と改めて考えた。

 1970年前後、彼はフォークの神様と呼ばれ、絶頂にあった。国家権力を笑い、革命をアジリ、人間の実存を掘り下げる彼の歌は学園闘争、街頭闘争に明け暮れる当時の若者たちの心を鷲づかみにし、時代のシンボルとなった。
 1970年、安保闘争は敗北。大学は急速に「正常」に戻り、1972年、連合赤軍のあさま山荘事件がひとつの時代にピリオドを打った。街頭からも学園からもヘルメットが消えた。それは、豊かな日本の始まりでもあった。

 敗北。岡林さんの視野はこのころから、ひたすら狭くなる。自分、家族、暮らし、という、手触りのある世界を深く掘り下げる。当時のアルバム「LOVE SONGS」はその集大成だ。
 
 フォークの神様の日々を苦く思い出す「Mr. O のバラッド」
 自分の子どもへの愛と亡き母への思いを重ねて歌い上げた「みのり」
 静かな日々に訪れる空虚感を歌にした「からっぽの歌」
 男と女の関係、そして自分を見つめ返した「五年ぶり」
 自分の弱さと正面から向き合った「ラブソング」
 男の弱さを笑い飛ばした「カボチャ音頭」
 三十路を迎えた男の哀切感が切なく、思わず、そやそや、と相づちを打ってしまう「男30のブルースよ」
 これも男の弱さをさらけ出した「ベイビー」
 子どもへの切々たる愛情があふれてこぼれ出す「花火」

 フォークの神様が、私と同じ弱さ、悲しさ、いい加減さ、そして溢れるような愛を抱いて生きている。研ぎすました感覚で選び抜かれた言葉の連なりに託されたメッセージが私の胸を深く刺した。私の数年先を歩む岡林さんは、私にとってなくてはならない先達となった。
 岡林さん、真面目に己と向き合った。

 J-ポップという言葉が生まれたのはいつの頃だろう。いまでは和製音楽の主流を占めるようになったが、私の耳には、その歴史はひたすら日本の音楽が堕落してきた歴史に聞こえる。耳を傾けたい音楽がなくなった。

 同じ思いを岡林さんも抱いたのだろう。彼は、主流となったJ-ポップには見向きもせず、ひたすら自分の内部を見つめるのと同じ目で音楽見つめた。
 やがて、「うつし絵」というアルバムが登場する。演歌である。当時、美空ひばりのために作った曲だ、というようなことを何かで読んだ記憶がある。本当かどうか分からないが、そうであっても不思議ではない。
 次に、アジアのリズムに挑んだ。彼は、韓国のサムサノリに傾倒した。
 こうして、音楽の主流に背を向けてひたすら自分の音楽を求める旅を始めた岡林さんは、いつしか音楽シーンの端っこに行ってしまった……。
 岡林さん、真面目に音楽と向き合った。

 立川に戻ろう。この日の中心は、「エンヤトット」のリズムである。一言で言えば盆踊り、民謡のリズムだ。演歌を経て、サムサノリを通り過ぎ、彼は日本に戻ってきた。日本人の体内時計に一番合うのは、後乗りの西洋のリズムじゃない。前乗りの盆踊り、民謡のリズムであるはずだ。いま、岡林さんはそう考え、実践している。立川では、おおむね3分の2を「えんやとっと」ミュージックが占めた。
 岡林さん、真面目に音楽を掘り下げ、日本人である己を真面目に掘り下げてここに来た。

 会場には1000人を超すファンが詰めかけた。右を見ても左を見ても、

 「ああ、そうか」

 だった。
 若い人がいない。99%がおっちゃんおばちゃんである。そうか、このうち何人かは、あのころ新宿駅西口でフォークギターを持って歌ってたんだろうな。大学でヘルメットをかぶり、威勢のいいアジ演説をぶっていた奴らもけっこういるんだろうな。ゲバ棒持って殴り込みに行った連中だって少なくないに違いない。
 が、いまでは皆、いい年をしたおっちゃんとおばちゃんだった。ハゲあり、白髪あり、シワあり、メタボリック腹あり。ないのは肌のつやである。時の流れとはそのようなものである。
 我ら夫婦が、すんなりその場の空気にとけ込んでいたのは、我が遺憾とするところである。

 皆、「山谷ブルース」「流れ者」「チューリップのアップリケ」「自由への長い旅」で盛大な拍手を送った。だが、「えんやとっと」には乗り遅れた感じがした。私も妻も、その仲間だった。
 まあ、岡林さんはプロである。最後は強引に客を「えんやとっと」に乗せた。アンコール曲も「えんやとっと」だった。それが終わっても拍手が鳴りやまず、やむなく歌った2曲目のアンコール曲も「えんやとっと」だった。
 会場は盛り上がった。
 だが、かなりの力業を使わないと客を乗せられないとしたら、岡林さんの「えんやとっと」CDが販売店の店頭に山積みになる日が来るのだろうか?
 いま、岡林さんのニューアルバムは2枚。「岡林信康 ベストコレクション 『歌祭り』」と、「岡林信康 ベストコレクション 『歌祭り』セカンド」である。だが、販売店にはない。コンサート会場での即売と、あとはネットで販売されているだけである。もちろん、私は持っているが……。

 岡林さん、あんた、真面目すぎるんとちゃうか?! もうちっと、ええかげんに生きてもいいんやないか?!

 そうそう、岡林さんがこんなことを言っていた。今年、あるいは来年がデビュー40周年なのだそうだ。それを記念して、今年の秋に日比谷の野音でコンサートを開く企画があるのだとか。
 開かれたら、行かずばなるまい。日比谷の野音で「えんやとっと」……。

 この原稿を書こうと思ってパソコンの前に座ってキーボードを叩きながら、ヘッドフォンでパソコンに貯め込んだ岡林さんの曲を聴いた。「祈りの朝」。阪神大震災の後、テレビ朝日の求めで作った曲である。当時、テレ朝の天気予報の時間、バックで流したのだそうだ。

 悲しみの夜よ 闇に抱かれて1人
 この胸の痛みは いつまで続くか
 二度と戻れない 深い闇の底まで
 崩れゆくそのとき ささやくあの声

 あなたの内なる 確かな力を
 信じてその手に すべてを預けよ

 したたる血潮は やがて乾き始める
 裂かれた傷口も いつか閉じてゆく
 悲しみは人を 冷たく打つけれども
 恵みの雨のように 豊かに育てる

 あなたの内なる 確かな力を
 信じてその手に すべてを預けよ

 あなたの内なる 確かな力を
 信じてその手に すべてを預けよ

 あなたの内なる 確かな力を
 信じてその手に すべてを預けよ

 あなたの内なる 確かな力を
 信じてその手に すべてを預けよ

 あなたの内なる 確かな力を
 信じてその手に すべてを預けよ


 お聴きになったことがない方のため、歌詞だけをサービスしました。私が歌ってダウンロードできるようにしてもいいのですが、気分を悪くされる方が出てはいけないとの配慮であります。
 筆者の配慮の思いを致し、文字だけでお楽しみいただきたい。

 

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