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 2006年4月6日 尊厳死

 同僚のお父さんが亡くなった。昨日朝のことだ。早朝に危篤の報を受けた彼は、最初の飛行機を捕まえて故郷に飛んだ。高知県の山奥である。だが、死に目には間に合わなかった。東京と彼の故郷の間は、そんな時間で隔てられている。

 末期の胃ガンだった。食べ物が喉を通らなくなり、まず点滴で栄養補給を続けた。それも体が受け付けなくなると、腸に穴をあけて直接栄養を送り込んだ。しばらく持つかと期待したが、下血が始まった。足りなくなった血液を輸血で補った。1日400cc、600cc、そして1000cc。日を追って輸血量は増えた。無論、寝たきりである。

 「医者がねえ、短くて1ヶ月、長くても3ヶ月というんですよ。まあ、血がどんどん流れ出して、止める手術をしようにも体力が持たないというんですから、しょうがないですけどねえ」

 同僚は、自ら「オヤジっ子」といって憚らない。父親をこよなく尊敬し、愛する土佐っぽである。先週も父親の様子を見に故郷に帰ってきたたばかりだった。

 「私はね、オヤジの最後は絶対に自分で看取るんですよ。でね、医者に言ったんです。4月は仕事が忙しいから、何とか連休明けまで持たせてくれってね。こんな忙しい時期に死なれたら、何ともなりませんからねえ」

 真面目を絵に描いたような男である。好きで好きでたまらない父親が末期の床にあるというのに、頭の半分は仕事のことを気にしている。

 「あのさあ、仕事はあんたがいなくても何とかなるけど、オヤジの最期を看取るのは一生に一回だけだぜ。仕事なんか忘れろよ」

 喫煙所で2人並んでたばこをふかしながら、私はアドバイスした。あんた、真面目にも限度があるんだぜ。

 「ダメです。4月は私がいないといけない仕事が、山ほどあるんです。でもね、安堂さん、尊厳死ってどう思います? ほら、富山で、医者が人工呼吸器をはずしたとかで騒ぎになってるじゃないですか」

 尊厳死? 彼にしては難しいことを言う。だが、彼の置かれた立場では、そんなことも考えてしまうのだろう。何せ、彼の父親は延命治療を受けているのである。富山の事件は、様々なことを考えさせたに違いない。

 「あの事件は、なんか裏がありそうなきがするなあ。そもそも病院にとって末期患者というのはすごく儲かるというし、そうじゃなくたって医者が勝手に生命維持装置をはずすなんてあり得ないでしょう。自分には何にもメリットはないのだし、あえて殺人みたいなことをするわけはないでしょ? 精神に異常をきたした医者ならいざ知らず。なんか裏があると思うよ。週刊誌なんかでは病院内部の内紛だとか書き始めてるけどね。それは別にして、もし私が患者で、病気が治る見込みがゼロだったら、尊厳死というのもありかな、と思ってますけどね」

 「そうですか、安堂さんは尊厳死を認めますか」

 彼は、何か考え込んでいた。

 「私はダメですね。輸血をやめろとは絶対にいえない。オヤジには生きていてほしいですから」

 「でもさあ、治る見込みが全くなくて、意識もないんだったら、誰かが決断してやった方がいいということもありそうだけどなあ。あなたのお父さんのことで申し訳ないけど」

 「それが、オヤジはまだ意識があるんですよ。私が行くと分かるんです。目で追うんですよ」

 「なんだ、そうなの。それだったら決断できないよねえ。それ、わかる。俺だって決断できないと思う」

 そんな会話を交わしたのは、訃報が届く1日前、4日の朝だった。私は最後に付け加えた。

 「でも、もう一度いうけど、お父さんは仕事より大事だよ。何かあったら、仕事を放っていいから駆けつけるんだぜ」

 昨朝、彼は伝言も残さず飛び立った。出社して事態を知った私は、社内への周知、花輪の手配、弔電の準備などに加えて、彼が放っていった仕事の処理に追われた。
 追われながら、でも、なんだか心が温かくなった。彼は立派に仕事を放り出してくれたのである。

 

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