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 とことん合理主義 - 桝谷英哉さんと私 最終回 :さようなら、桝谷さん

 桝谷さんの奥様から突然お電話をいただいた。2000年の夏だった。

 桝谷さんとの付き合いは長い。しかし、奥様?
 こちらからご自宅に電話をかけたとき、たまたま奥様が受話器を取り上げてくださる。そんな希なケースにお話ししたことしかない。
 突然お電話をいただく理由は思いつかない。

 「何だろう?」

 いくら考えても、分からない。いぶかりながら受話器を取った。

 「あのう、これまで、ずいぶん、親しく、お付き合い、いただいて、参りましたので、安堂さん、には、お伝え、しておいた方が、いいと、思いまして……」

 話しにくそうに、訥々と、電話口で話される中身に、言葉を失った。

 話はこうだった。

 桝谷さんが病魔に冒されている。医者も匙を投げた。持って半年、長くて1年だろう……。

 うそ、でしょ!?
 冗談、でしょ!?

 しかし、奥様が、私にわざわざ電話をかけて、こんなたちの悪いうそや冗談をおっしゃるわけがない。

 「いつ分かったんですが?」

 「このところちょっと体調が悪いといっておりまして、数日前、病院に参りましたんですが、それで分かりまして」

 「桝谷さんはご存じなんですか?」

 「いえ、主人には何も申しておりません」

 「そうですか……」

 そんな会話を交わした記憶がある。
 奥様を励ます言葉もない。いや、こんな時に、励ますなんてできるわけがない。

 奥様は、桝谷さんに事実を告げていない。桝谷さんが担うはずの苦しみを、自分で引き受けるつもりなのだ。
 終生のパートナーと分かち合えなければ、悲しみ、苦しみは、2倍、3倍に膨れる。それに耐えていかれる覚悟なのだ。
 言葉が、何の役に立つだろう。

 「わざわざお知らせいただいてありがとうございました」

 それ以外の言葉が思いつかなかった。

 

 あと、半年……。

 ボーっとしているうちに、また電話がかかってきた。

 「ああ、礼人さんでっか」

 受話器から流れてきたのは、聞き慣れた桝谷さんの声だった。

 えっ、桝谷さんご本人から電話!

 こちらが気を取り直す間はなかった。受話器から桝谷さんの声が鉄砲玉のように飛び出してきた。

 「なんやら、うちのヤツが変な電話をしたようでっけど、あれは全部嘘ですからな。なにやら最近、女房のヤツ、頭が変になりよったらしいんですわ。おかしな電話をあっちこっちにかけてますんや。あんさんに女房が何いうたか知りまへんが、気にすることおませんさかい、忘れて欲しいんですわ。よろしいな」

 えっ、桝谷さんは、奥様の電話の中身をご存じなのか?
 だとすれば、ひょっとしたら自分の病気に、薄々気付いていらっしゃるのか?
 残り時間が数えられるようになったことも、あるいは分かっていらっしゃるのか?
 いや、桝谷さんは知らないことになっているのではないのか?

 様々な「?」が頭の中を駆けめぐった。

 混乱を増すばかりの頭で、桝谷さんに何を言ったのか。どうしても思い出せない。

 「はあ、そうなんですか。それで、ずいぶん長い間会ってませんけど、お変わりありませんか?」

 多分、そんな間の抜けたことをしゃべったのだろう。

 私には、言いたいことがいくつもあった。聴きたいことがたくさんあった。でも……。

 電話が切れた。

 迷い始めた。残りの時間が限られているのなら、せめてもういちど会いたい。会って話をしたい。とにかく、神戸まで出かけて顔を見たい。

 できるか?

 桝谷さんに、疑念を抱かせない訪問の理由を見つけることができるか?
 平日なら、仕事で関西に来たついでに立ち寄ったことにできるだろう。だが、平日は東京で仕事が目白押しだ。BSデジタル放送の放送開始は、その年の12月1日なのである。もう、半年もない。

 では、休日に神戸へ
 だめだ。適当な理由は思い浮かばない。

 それに、桝谷さんに会ったとして、平気な顔で話ができるか?
 無理だろう。私は、思いがすぐに顔に出るたちである。

 桝谷さんにお目にかかるのを断念した。断念するしかなかった。

 

 2000年12月1日。
 本格的なデジタル放送の幕開けとなったBSデジタル放送が営業放送を開始した。

 その日、私は午前9時半頃から、東京・原宿のデジキャスで、ジリジリしながら放送開始を待ち受けていた。
 岡正和社長(当時)は、放送開始の記念式典会場となったNHKホールに出かけている。同業他社の社長たちと並んで、彼も、私と同じ気持ちで開始時刻を待ち受けているはずだ。

 BSデジタル放送は、これから始まる本格的なデジタルハイビジョン時代の先駆けであるだけではない。
 テレビは、ほぼすべての家庭に少なくとも1台はある。そのテレビがデジタルになると、情報端末にもなる。パソコンが苦手な人でも、自宅で様々な情報を、テレビから取り出せる。暮らしが一変する。
 その中核は、BSデジタル放送が先鞭を付ける、双方向機能を持ったデータ放送なのだ。デジキャスは、新しいデジタル放送の地平を切り開く狙いで作られた会社である。

 デジキャスの社員は、日立製作所、富士通、キヤノン、朝日新聞、テレビ朝日からの出向である。
 2000年2月9日の会社設立からこの日まで、デジキャスの仲間たちは全力を挙げてきた。

 営業部隊は街に飛び出し、まだ誰も見たことがないメディアを売った。

 「そういえば、ちらっと聞いたことがありますが、何ができるんですか」

 というクライアントに、通信と放送が融合する21世紀のテレビにかける熱い夢を語った。夢への参加を呼びかけた。
 10月、予定していた販売枠が完売した。データ放送専門局では、デジキャスだけの快挙だった。

 制作部隊は、データ放送用に開発された記述言語、BML(Broadcast Markup Language)に取り組んだ。わざと分かりにくく書いているのではないか、と言いたくなる解説書を読み解き、開発されたばかりの制作ツールが高価なだけで使えないと判断すると、直にプログラムを書き始めた。仕上がったコンテンツは、デジタルテレビで本当に表示されるかどうか、一つ一つ検証を重ねた。テレビで見やすいデザイン、色使い、操作性の研究も深めた。

 技術部隊は、夜を日に継ぐ強行スケジュールで制作システム、送出システムを仕上げ、テストを重ねた。放送事故を起こしてはならない。
 チャンネルを合わせたときに、何も写らない画面が長々と出ては具合が悪い。できるだけ早く最初の画面を表示させるにはどうするか。
 放送用の素材の搬入から、実際に放送するまでの仕事の流れはどうすればいいのか。
 仕事は山積みだった。徹夜に近い状態が続いた。社長室のソファがベッド代わりになった。

 「あいつ、あんなに家に帰らないんじゃ、奥さんに逃げ出されるぜ」

 と言われる仲間がいた。

 「おまえ、何時の間に仕込んだんだ? そんな時間あったか?」

 子供ができたと仲間に報告したら、そんな驚き方をされたヤツもいた。

 深夜、1日の仕事をやっと終えて入った飲み屋で、疲れのたまった顔をした技術系の仲間が話しかけてきた。

 「礼人さん、俺はねえ、この仕事をやらせてもらって嬉しいんですよ。だってね、これから少なくとも数十年、データ放送はテレビの世界で生きていくんです。その、最初の形を、俺の手で作れるんだから、こんなに楽しいことはないじゃないですか」

 そういう日々を重ねて迎えた12月1日だった。
 放送開始は、午前11時。受信機のチャンネルをわが社の933chに合わせて、その瞬間を待っていた。

 

 「安堂さん、電話ですよ」

 クリスコーポレーションからだった。その瞬間、忙しさにかまけて忘れていたことを思い出した。

 桝谷さん……。

 予感は的中した。
 桝谷さんが亡くなった。その日の早朝だったと聞いた。
 まさか、こんな日に。

 その日は、夕方から宴会になった。無事に放送を始めることができた祝いである。
 会社での立食パーティを終えると、7、8人で外に出た。近くの飲み屋で、しこたま酒を飲んだ。みんなが、しこたま酔っぱらった。

 みんなは、祝いの酒、だった。
 私も、半分は祝いの酒だった。しかし、あとの半分は、一人だけのお通夜だった。
 私の酔いが一番深かった。

 2000年12月1日は、忘れられない日になった。

 

 あの日から、2年半がたった。
 昨年10月から書き続けてきた「とことん合理主義―桝谷英哉さんと私」は、本記だけで21回、クリスキットの製作記を加えると32回を数えた。全部で9ヶ月近く書き続けたことになる。

 1回目に書いたように、私が大好きだった桝谷さんとクリスキットを少しでも知って欲しいと思って書いてきた。最初の目的がうまく達成できたかどうか、あまり自信はない。判断は、読んでいただいた方々にお任せするしかない。

 ただ、連載を始めてから、デジキャスのホームページへのアクセスが大幅に増えた。中でも、日記へのアクセスが急増した。
 それだけではない。たくさんの方から励ましのメールをいただいた。中には、この日記を読んで、クリスキットを購入し、自分で組み立て、出てきた音に陶酔している、という方もいらっしゃった。
 嬉しかった。
 励まされた。

 取材ノートはなかった。メモすらなかった。だから当初は、10回程度書ければいいだろうと気楽に始めた。それが終わってみればこの長さになった。自分でも驚いている。
 私の記憶力が人並みはずれて優れているわけではない。凡庸な私の頭脳に、私が知らないうちに、桝谷さんはこれだけの記憶を残してくれた。桝谷さんの強烈な個性の賜である。

 その記憶を掘り出させたのは、読者の皆さんの支えである。それがなかったら、生来怠け者の私のことだ。

 「ま、この辺でいいか」

 と、途中で挫折していたに違いない。

 本当にありがとうございました。

 できればお願いしたい。
 音楽が好きで、この日記で桝谷さんとクリスキットに関心を持っていただいた方は、ぜひ、クリスキットに接して欲しい。そうすれば、私が書いた32回にわたる文章を読むよりも、桝谷さんとクリスキットの偉大さをはるかによく理解できるはずである。

 第2回に書いたが、私は

「グチャグチャいわんと、まずプリアンプだけでええから、買うてみなはれ」

 と桝谷さんにいわれて、クリスキットの門をくぐった。くぐって、虜になった。

 同じ言葉を、この日記を読んでいただいた方々に送って、この連載の筆を置く。


【初出2003年6月27
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