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 とことん合理主義 - 桝谷英哉さんと私 第20回 :Macintoshマスター

 桝谷さんと私は、連日、無限への挑戦を続けた。

 当時の私と桝谷さんの関係は、かつての、たこ焼き先生と桝谷さんの関係のようなものである。伝える熱意、吸収する熱意、どちらをとっても、両者に大きな違いはない。
 1つだけ違いがあった。桝谷さんは、たこ焼き先生の教え子だったときに比べてを重ねていた。

 

 

(余談)
そういえば、教えながらたこ焼きを食べたこともない。

 

 「礼人さん、あんた、知ってなはるやろ。私は、もう70過ぎた爺さんでっせ。もっと分かりよう教えてくれまへんか。そやないと、しんどいわ」

 そんな泣き言がしばしば登場した。

 「ちょっと待っておくんなはれ。そんなことはメモしとかんと忘れてしまいますねん」

 「桝谷さん、それは前に教えたでしょう。その時、あなたはメモをとるといわれたと記憶していますが……」

 「いやあ、何処かにメモしておいたはずなんやけど、そのメモがどこに行ったかわからんようになってしもうて」

 

 

(余談)
客との約束を忘れた銀行マンがいた。入行、5年目の若手である。
その客から苦情を受けた支店長が怒った。
「バカ野郎! お客様と約束したことはちゃんとメモして忘れないようにしろ!」
「はいっ、分かりました!」
彼は、体育会系の乗りで返事をした。事実、彼は体育会系だった。
数日して、別の顧客から同じ苦情が支店長に届いた。同じ部下の仕業である。
「バカ野郎! お客様との約束はちゃんとメモをしろといったのを忘れたのか!」
「はいっ、メモはしてあります」
「だったら、どうしたんだ?!」
「はいっ、メモを読むのを忘れてました
ある都銀支店長から聞いた話である。
桝谷さんばかりを責めるわけにはいかない。

 

 私は桝谷さんに、同じことを何度も教えた。

 「礼人さん、電話くれまへんか。なんや、Macintoshがおかしくなりましたんや」

 「はいはい」

 ピポプポパッ。

 「クリスコーポレーションですが」

 「安堂です。どうなりました?」

 「いや、どうもこうも、あのですな、あれが、そのうおかしくなってですな、それで、とにかく滅茶苦茶なんですわ」

 「桝谷さん、落ち着きましょう。ソフトは何を使ってました? いま、画面の上はどうなっています? それを教えてくれませんか?」

 そんなやりとりを何度も繰り返した。

 「礼人さん、ソフトの使い方が、ようわからんのです。電話くれますか」

 「はいはい」

 「何を使っているんですか?」

 「○○なんですけどな。どこをどうやったらいいのか、ようわからんのですわ。だいたい、今時のソフトは、遊びにしか使わん機能をようけ入れ込んで、全くむちゃくちゃですわ。そやから、私のように、真面目に仕事に使おう、いう人間が困るんです。日本のソフトメーカーもよう考えてもらわんと。全く、悪貨が良貨を駆逐するんですわ。真面目に、仕事に使う人のことを考えて作ってあるソフトが、そこいらのみーちゃん、はーちゃん相手のソフトに、売上で負けて、しょうがなしにおもちゃソフトになりますのや。それで、こんなに使いもしない機能ばかり付いて、使いにくいソフトになって。ほんまに迷惑や。何とかなりまへんやろか」

 「桝谷さん、文句は後です。で、何が分からないんですか?」

 「そうですけどなあ、あんさんも、今のソフトはおかしい、思いまへんか?」

 「桝谷さん、ぼやきはあと。ぼやきを聞けというんなら、切りますよ。私にも仕事がありますので」

 「いや、そやから、はあ、分かりましたわ。実は……」

 桝谷さんがMacを使いこなすようになるまで、5,60時間はかかったと思う。すべて電話での授業である。
 繰り返すが、電話代はこちらの負担である。

 

 

(余談)
東京―神戸間の電話代が果たしていくらかかったのか。
知りたくもある。
計算して知ってしまうのが恐いような気もある。

 

 紆余曲折があった。
 だが、基礎的な操作をマスターした後の桝谷さんは、素晴らしい勢いで走り始めた。加速度がついた。

 使いたかったソフト、Finaleを自家薬籠中のものにするのに、大した時間はかかっていない。
 神戸に遊びに行ったとき、実演も見せてもらった。

 

 

(テスト)
自家薬籠中は読めましたか? 意味はわかりましたか?
そこで思い出したのですが……。

 事件は、2003年5月13日午後6時17分、地下鉄表参道駅の銀座線プラットフォームで起きた。
 私は、「事故その後」にも登場した同僚のH,Hの部下のA,Tと4人で、その日の飲み会の会場、銀座へ向かう途中だった。
 目的地は、これも「事故その後」に登場した友人のNが紹介してくれた能登料理の店である。
「安堂さん、今日の店はどこだっけ」
というHに、私はNから来たメールのプリントアウトを渡した。
メールを読み始めたHは、なかなかそれを返してくれない。聞き耳をたてると、ぶつぶつつぶやいている。人混みの中で独り言をいう中年男は、見苦しい。
聞き耳をたてた。
「えっ、これ、何と読むんだ? こんな漢字……」
のぞき込むと、彼の視線は4文字熟語に釘付けになっていた。
毀誉褒貶
である。
Nからのメールに、
「行った人にいろいろ聞いてみましたが、毀誉褒貶あります」
とあった。
この4文字熟語が、Hに読めなかったのである。Hは若いころ、麻布中学に合格して高校まで通った男である。
「うそ、あんた、本当に麻布中学に合格できたのか!?」
思わず私は突っ込んでいた。
「何いってんの。こんな漢字を読めるヤツはいないって」
「Hよ、バカなことを言ってはいかん。これを書いたNは読めるではないか。私も読めるのである。読めないのはあんただけである。この、無教養者!」
罵倒しながら私は、AとTに
「君たちは読めるよな」
とプリントアウトを渡した。
A:えっ、これ、何ですか? 第2水準には絶対入ってない漢字ですよ。読めません。
T:いやー、わかんないなあ。僕たち、理科系ですから
なるほど、上司にこれ以上恥をかかせてはならない。AとTは立派なサラリーマンである。
いや、本当に読めないのかな……。
飲み屋に着いて、現地集合の相手、Yにあった。彼は、難なく読んだ。
翌朝、愚妻と愛娘に見せた。読めない。
突っ込み始めたら、最後まで行くしかない。
翌朝、会社で20人ほどに見せた。読めたのは、Kaw,Ik,M,Kam,Is,O(すべてイニシアル)。比率は30%程度である。
OはHの部下である。Oのサラリーマン人生は、この日をもって終わった、のかもしれない。
Hは大多数が読めないのだから、自分が読めないことに問題はない、と言い放った。
文化、教養を多数決で決めようとする人間を、何と表現したらいいものか。
にしても、日本の、教育、文化、教養の危機である。
ところで、あなたは読めましたか?

 

 「これをこうすると、ほら音符が出てきて、そいでこないやって選択すると、うまく五線譜の上に配置されますのや。で、位置がおかしいと、こうして調整できますし……」

 なるほど、みごとな楽譜がキヤノン製のレーザープリンターから出てきた。説明する桝谷さんの顔は、喜びに溢れているように見えた。
 私には、どうでもいい話だったが。

 次に桝谷さんが取り組んだのは、クリスキットユーザーのデータベース作りである。

 Aさんが、クリスキットに最初にアクセスしてきたのはいつか。カタログを申し込んだ日時は。いつ、何を購入したのか。電話の受け答えや手紙から受けた相手の印象はどのようなものか。
 ユーザー、あるいはこれからユーザーになろうという人から電話を受けたとき、その人の属性をすぐに呼び出して使えるデータベースを桝谷さんはほしがった。

 「ということを考えてます。なんかいいソフトはありまへんやろか?」

 表計算ソフトを紹介した。クラリス・ワークスが最初だった。桝谷さんの買ったMacにくっついていたのだと思う。だが、採用されなかった。

 次に、エクセルを紹介した。神戸まで行ったおりに、ノートパソコン(パワーブック2400)を持ち込んでデモまでした。検索機能も紹介した。これも採用されなかった。
 ほかに思いつくソフトがなかったので放っておいた。

 「礼人さん、いいソフトが見つかりましたわ」

 1ヶ月ほどたって、突然電話がかかって来た。
 最終的に採用されたのは、ファイルメーカproである。名前だけは知っていたが、私は使ったことがない。当然、推薦もしていない。
 我が愛弟子は、自分の足で歩き始めた。
 出藍の誉れである。
 青は藍より出でて藍より青しである。

 

 

(だめ押し)
Hは、この2つの言葉を読めるだろうか……。

 

 それから桝谷さんは、自分の思い通りにフォーマットを作り、データの入力作業を続けた。

 「はい、クリスコーポレーションです。はい、△△さんですか。少しお待ちください。………………………………………………。はい、昨年夏、Mark8-Dをお買い上げいただいてますね。ご自分で組み立てられた。それで、今日はどのようなご用件でしょうか?」

 このような電話の応対が始まった。

 「いやあ、具合よろしいんですわ。電話かけてきた人のプロフィールが、一遍に出て来よりますからなあ。電話で、『ああ、あなたは……』なんていうと、みんなびっくりしよるんですわ。桝谷という男は、どえらい記憶力を持っとる、とでも思いますんやろか」

 いい大人が客を驚かせても、あまり意味はない

 もちろん、顧客のデータベースは、顧客とのコミュニケーションに大いに役に立つ。プリアンプをすでに持っている人が電話をかけてくれば、何処か調子が悪くなったか、それともパワーアンプを買いたいのか、どちらかだろうと見当が付く。ヘルパーに制作を依頼した顧客のシートには、それを引き受けたヘルパーが誰だったかが入力されているから、客からの相談も、場合によればそのヘルパーに回す。確かに便利である。

 だが、桝谷さんがこのデータベースを作った最大の目的は、「とことん合理主義 - 桝谷英哉さんと私 第16回 :客とは」で一部をご紹介した、「困った客」対策だった。いわゆる閻魔帳、ブラックリストである。
 ブラックリストには、桝谷さんから見た不良顧客、電話を受けたことはあるが客には絶対にしたくない相手、がリストアップされていた。

 ブラックリストをどう使ったかって? 幸いながら、私はブラックリストには収録されなかったらしいので、詳しいことは分からない。

 「あんさんは、12年前にカタログを請求されてますな。それだけで、後はなしのつぶてや。まだ、クリスキット使うてもろてない。あんさんなあ、12年前に別れた女にばったりあって、『12年前から好きやってん。今日しょうか?』いうたところで、『ほな、しょうか』いう女がいてると思てはりますのか!」

 てな風に使われたのではなかろうか。

 際だってたちが悪いと桝谷さんが判断した人のデータシートが2、3枚、我が家に送られてきたこともある。しかし、私にとってはどこの誰だかわからない人のデータなので、一読して捨ててしまった。中身は忘れた。
 こんな原稿を書くと分かっていたら、大事に保存しておいたのだが。
 もったいないことをしてしまった。

 このデータシートには、クリスコーポレーションのロゴも印刷されていた。

 「礼人さん、クリスコーポレーションのロゴを何とかしたいんですわ」

 「何とか、って、どうしたいんですか?」

 「いや、そやから、うちから出す文書がありますがな。これまでは、クリスコーポレーションのロゴが入ってましたんや。いまは、文書はMacintoshで作りますんやが、その文書にもロゴを入れたいと思いましてな。Macintoshに入っとるフォントは全部試してみたんやけど、どうもうまいものがないんですわ。なんせ、うちのロゴはちゃんと作りましたさかい、変なものにしたくないんですわ」

 今のロゴをスキャナで取り込み、フォトショップで色や形を整えて、画像として保存しておき、文書に貼り付けたらどうか、というようなことを提案した。
 といっても、当時の私は、スキャナなんて使ったことがない。フォトショップも、私の暮らしにはあまり縁がなかった。従って、ここでの提言は、本で読んだ知識の切り売りである。実技指導は伴わない。

 そのうち、Macintoshで作った文書にも、クリスコーポレーションのロゴが入り始めた。私が提言したとおりの作業が行われたのかどうか、そういえば、確認もしなかった。

 私を驚かせた最後の出来事は、ワープロソフト、ワードの活用である。

 何冊も著作がある桝谷さんは、Macにすっかり習熟し、レーザープリンターも買いそろえて、

 「次の本は、版下まで自分で作る」

 という壮大な目標を掲げた。対称は「オーディオマニアが頼りにする本5 クラシック音楽が三倍楽しくなる」だった。

 楽譜は当然、Finaleを使って自分で書く。
 そこまでは決まっていた。あとは、文書のレイアウトをどうするかである。いや、どのソフトを使ってレイアウトすれば、版下として使える綺麗な仕上がりになるかである。
 いろんなソフトを試してみた。プロが使っている有名なソフトも、私と桝谷さんで使ってみた。どれも、レイアウトが美しくならなかったり、操作が複雑すぎたりで、気に入らない。
 試行錯誤の末、ワードに行き着いた。私はあまり好きなソフトではない。数式のある原稿を書く必要があって購入し、その必要がなくなるとほとんど使わないソフトになって我が家に転がっていた。そのコピーを作って桝谷さんに送り、使い心地を試してもらった。
 桝谷さんは、これがいたく気に入った。ワードを使うことになった。

 「でも、礼人さん、ソフトというヤツはライセンスがあるんでしょう。あんたからもらったコピーを使って本の版下を作るわけにはいきまへんわな」

 「いいんじゃないですか、それぐらい。個人で使う分ぐらい、誰も調べませんよ」

 「いや、いけまへん。本にしたあと、このソフトを出している会社の人が私の本を読むかもしれまへん。そいで、ワードで版下作っとるようやが、こいつは正規のユーザーになっとるのかと調べるかもしれまへん。本を出版するような人間が、こうした社会の約束事を破っていては、偉そうなこと言えまへん。私、買うてきますわ」

 桝谷さんは、そういう人だった。
 しかし、新しく買うとなるとかなりの出費だ。もったいない。
 私は、ライセンスの譲渡の仕方を調べ、私の持っていたワードを桝谷さんに譲った。

 

 

(余談)
ちなみに、この原稿もワードで書いております。エディターでもいいのですが、あちこちから来るメールに添付されている文書がほとんどワード形式であること(テキスト形式で添付してくれれば、ワードなど必要ないのに)、パソコンの処理能力が上がって、ワードを使ってももたつきを感じなくなったこと、が原因です。
そうそう。これは会社のお金で買った正規品であります。

 

 ワードで原稿を書き、Finaleで作った楽譜を貼り付けて全体をレイアウトする。こうしてプリントアウトしたものを出版社に渡す。桝谷さんは、そんな作業に邁進した。

 「礼人さん、電話をくれまへんか」

 また、授業開始を告げる電話がかかり始めた。しかし、もう授業は成立しなかった。

 「縦書きにするのはどないしますねん」

 このあたりまでは対応できた。しかし、質問は急速に高度化する。

 「楽譜を張り込んだとき、テキストとのバランスがあんまり良くないんですわ。どないして調整したらええんでっか?」

 「みんながドボルザークいうとる作曲家は、本当はドヴォルジャークいいますねん。あの人はチェコの人ですさかい、英語にはない文字を使いますのや。rの上に∨が付いた文字を使わなあきまへんし、aの上にも´が付くんですわ。そんな文字、Macintoshでどないしたら出せますねん?」

 そんなの、私に分かるはずがない。ワープロとは原稿を書くときに使うもので、私が書く原稿にレイアウトなど関係ない。レイアウトなどしたことがない。

 ましてや、チェコ語なんて見たことも聞いたこともない。勿論、書いたことがあるはずがない。どんな文字を使っているかなんて、私の知識には当然含まれていない。

 「礼人さん、色々試してみた結果、アルファベットのフォントはPalatinoが一番よろしいな」

 そんな電話も入るようになった。
 文字通り、70の手習いを始めた我が愛弟子は、いつの間にか私の庇護のもとを離れ、大空を自力で飛び回り始めたのである。
 こんな70歳って、ほかにいるかあ?

 

 

(余談)
私が中欧に出かけたとき(この日記の「中欧編」I〜IXを見てください)、ハンガリーでMacを愛用している人に会った。中古ピアノを再生して販売している職人だった。
桝谷さんのリクエストを記憶していた私は、お願いしてマジャール語のフォントをフロッピーにコピーしてもらい、持ち帰った。これで、桝谷さんの「ドヴォルジャーク」は、Macで表現できる、はずだった。
自宅に戻り、自分のMacにそのフォントをインストールした。しかし、どこをどういじっても、マジャール語は出てこなかった。結局、桝谷さんのリクエストには応えられないままだった。
何が悪かったのか?
いまだに判らない。

 

 OSのバージョンアップを何度も勧めた。

 「今のままで何にも不自由していないのに、何でそんなことをせなあきまへんねん?」

 インターネットへの接続も、何度も勧めた。メールを使ったコミュニケーションの便利さ、安さを説いた。Webの世界で、いかに情報検索が楽にあるかも口を酸っぱくして話した。
 いつも答は同じだった。

 「わて、いい年をした男が、匿名で『僕、マッピーです。Macを使ってるんだけど、ここが分かりません。誰か教えてくれませんか』なんてやってるの、気持ち悪うてたまりませんのや」

 最後まで、インターネットには無縁だった。

 桝谷さんがご存命だったら、いまだにクリスコーポレーションのホームページは開設されていなかったかもしれない。

 いや、また「君子」ぶりを発揮して、いまごろは私がぶっ飛ぶようなホームページを運営していたかもしれない。

 どうも、後者の可能性の方が高いような気がする。
 それが桝谷流に、一番ふさわしいような気がする。

 

【初出2003年5月16
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