グルメに行くばい!   第24回 :ニシンのマリネ

 ある土曜日、いつものようにデパ地下を歩いていた。
 このころになると、デパ地下、とくに名古屋三越の地下食品売り場は、すっかり私のなじみの場所だった。魚の売り場はどこか、有機野菜はどの売り場で扱っているか、コーヒー豆を買うときはどこに行けばいいか。すべて目をつぶってでもたどり着ける。
 単身生活の、笑えない、惨めな、現実である、
 その惨めな現実の中を、でも、見た人が思わず幸せになるような、素敵な笑顔を浮かべて歩を運んでいて、ふと、生のニシンが目に付いた。
 悲しいことに、私は、このようなときにひらめく人間に変身していた。

 「おっ、珍しい。よし、ニシンのマリネを作ろう!」

 ニシンのマリネは、前々から作ってみようと思っていた。が、肝心の生のニシンがなかなか手に入らない。それがいま、目の前にある。

 丸元さんの「続新家庭料理」で見た料理である。デンマークの伝統的レシピだそうで、日本のしめ鯖に匹敵するとある。
 それだけでも食欲を誘うのだが、相手にする魚がニシンだと、これに別の思いが加わるのである。

 思いその1は、ニシンのぬか漬けである。「グルメに行くばい! 第12回 :グルメ開眼」でご紹介したように、この食べ物には思い出がいっぱい詰まっている。
 ニシン ― 北海道 ― 札幌 ― 「憩」― すすきの ― ……
 てなもので、ニシンと聞いただけで、目がウルウルしそうになる。
 ニシン?!
 買わずばなるまい!

 思いその2は、丸元さんの著書だ。必須ミネラルの重要性を説いた「スーパーヘルス」である。
 読んだ頃、自分で作ったメモがあるので紹介しよう。

 [亜鉛]














現代人が不足させがちな栄養素。
必要量は1日に15mgから30mg。
テストステロン(男性ホルモン)の代謝に不可欠。
不足は前立腺の障害を招く。
腎臓にも不可欠。
わずかの不足が免疫力の低下を招く。
1日に1mg不足すると、6カ月でインポテンツ。
回復には、毎日余分に30mg採り、18週から20週かかる。
かき(143=100g中mg)、にしん(143)、いわし、はまぐり(21)、あさり、海草類、無精製の穀類、小麦のふすま(14)、小麦胚芽(13.3)、カボチャの種、ヒマワリの種、ごま、レバー(豚9、牛5.5)、牛肉(6.4)、羊肉(5.3)
体内蓄積は飲酒、喫煙、感染で減る。
妊娠中に不足すると、学習や記憶能力に欠陥のある子供が生まれかねない。つわりもひどくなる。

 いかがであろうか。
 飲酒、喫煙という悪癖にどっぷり浸かった生活をして、それ相応の年齢に達している私としては、ちょっと、いや相当に神経質にならざるを得ない栄養素であることがご理解いただけるはずである。
 そして、ニシンは、その亜鉛をたっぷり含んでいる食品なのだ。
 ニシン?!
 買わずばなるまい!

 

 

(栄養学の進歩)
栄養学は、「スーパーヘルス」以降も、日々進歩している。
インターネットで、「亜鉛 不足」で検索してみた。すると、亜鉛不足の危険性は、さらに広がっていた。
・ 味覚異常
・ 抜け毛
・ 爪の異常
・ 老化の加速
いやあ、学問は様々のことを教えてくれる。

 

 迷わず、生のニシンを3尾購入した。

 今回も、ここでレシピを。

 ニシンのマリネ

 材料
         ニシン まあ3〜4尾
        にんじん 1
         トマト 2
         玉ねぎ 1
   クローブ(ホール) 10
    黒胡椒(ホール) 10
    タラゴンビネガー 2分の1カップ
         調味料

 作り方

 

1,
ニシンを3枚におろす。
   

(注=3枚におろす手順)
1、胸鰭の下から包丁を入れて頭を切り落とす。
2、内臓を取り除き、身はきれいに洗う。
3、背側から包丁を入れ、包丁を中骨にそわせながら骨と身を切り離す。
4、上下を入れ替えて腹側から包丁を入れ、骨と身を切り離す。
5、まだ背骨と身がくっついているので、これを包丁で切り離す。
6、反対側も同じようにして骨から身を切り離す。

2,

切り離した片身は、あばら骨(というのかな?)の下に包丁を入れ、あばら骨を身から切り離す。

3,

ニシンは小骨が多いので、毛抜きのお化けのような骨抜きを使って小骨を抜く。

4,

3枚におろしたニシンにたっぷり塩をふり、一晩冷蔵庫で寝かせる(畏友「カルロス」お薦め)。または、ピチット(スーパーなどで売っている脱水シート)に包んで冷蔵庫に2〜3時間入れておく(丸元氏お薦め)。

5,
にんじんをすり下ろし、しばらく煮て水分をとばす。

6,

トマトを湯むきしてピューレにする。つまり、形がなくなるまで煮詰める。

7,

にんじん、トマトが冷めたら一緒にし、薄くスライスした玉ねぎを加える。そこにクローブと黒胡椒は砕いて入れ、タラゴンビネガーをかけてかき混ぜ、蓋付きの容器に入れて一晩冷蔵庫で寝かせる。これでドレッシングのできあがり。

8,

塩をふって寝かせて置いたニシンはビネガーで洗って塩を落とし、食べやすい大きさに切ってドレッシングに漬け込む。ピチットに包んで置いたニシンの場合は、軽く塩をふって同じようにドレッシングに漬け込む。

 

 以上で完成である。
 酸っぱいものが苦手な人は別として、個性の強いニシンが、個性の強いドレッシングとうまくマッチし、なかなか捨てがたい味をしている。
 デンマークの料理だから、さすがに、ご飯や日本酒に合わせるというわけにはいかないが、ビールなら充分にいける。理想を言えば、赤ワインと合わせたい。
 このニシンが豊富に含む亜鉛についての栄養学に知識を身につければ、一口ごとに体が元気なるような気がするから不思議だ。生のニシンを見つけたら(春から初夏が旬)、ぜひお試しいただきたい。

 

 

(余談)
我が古くからの変な友人が、最近東京に転勤してきた。会いたいというので、「小菊」で酒を飲んだ。大変喜んでくれ、その後「小菊」の常連になった。ま、小菊のためにも喜ぶべきことである。
話がそれたが、久しぶりに会ったというのに、この男はやっぱり「変」だった。
「おい、礼人。お前、バイアグラ飲んでるか?」
ほかにも客がいた。変な友はちっとも気にならない様子であった。
「バイアグラ? いや、俺は必要だと思ったことはないが、おまえ、そんなもの飲んでるのか?!」
「当たり前やないか! バイアグラを飲まずにどうする! 自慢じゃないが、俺は心臓が悪い。心臓が悪いのに、バイアグラを飲んで多くの女を喜ばせているのよ。俺には愛があふれているのよ。偉いと思わないか、えっ?」
ちっとも偉いとは思わない。こいつ、やっぱり馬鹿ではないかと思うだけである。
「いや、仕事でお世話になる高齢者にも何度もあげたよ。喜ぶんだなあ、ジジイたちが。みんな、やっぱりほしがってんのよ。どや、お前にもやろうか?」
あれほど話題になった薬である。私とてバイアグラに関する知識ぐらいはある。その知識から判断する限り、ほしいとは思わない。
「ばか。お前、人生を楽しめよ。効くぞー、バイアグラは!
もう一度書く。ほかにも客がいた。友の地声は大きい。ヤツには、音量調節をするつまみはついていない。人がいようといまいと、同じ大声でしゃべる。
常識も、デリカシーも、恥じらいも、何にもない男である。こういう男を野獣という。その野獣が、時折美女とくっついたりするから、世の中は不思議である。
昨秋から、この友がパッタリ「小菊」に現れなくなった。なんでも、気管支だか肝臓だかを悪くして、ドクターストップがかかったのだという。
私は、本当に悪いのはヤツの頭ではないかと疑っている。
ヤツ、まだバイアグラを飲んでいるのだろうか?

 

 事件は、ここから始まった。

 単身生活とはいえ、3尾程度のニシンは、ビールやワインと一緒に、たちまちにして我が胃袋に収まってしまう。ニシンを漬け込んでおいたドレッシングが大量に残った。
 次の土曜日、もう一度作ろうと思ってデパ地下に駆けつけた。ニシンを購入するためである。ところが、ない。念のため、丸栄や松坂屋の食品売り場も回った。どこにもなかった。たった1週間で、生のニシンは私の手の届くところから消え失せてしまった。

 「兄ちゃん、遅いよ。もう今年は終わり。来年まで1年間待つんだね」

 威勢のいい魚屋さんに言われた。が、言われても困るのだ。我が部屋には、早くニシンを包み込みたいというドレッシングが待っているのである。

 「はあ、どうするべ?」

 深い哲学的思考に浸りながら、それでも目は、並べられた魚を右端から左端まで追った。ない、やっぱりニシンはない。

 私は、ひょっとしたら「ヒラメ奇病」(そんな病気があればだが)にかかっているのかも知れない。
 再び訪れたのだ、ひらめきが。

 目が止まったのは、イワシのところである。「生食用」とわざわざ書いてある。刺身で食べられるイワシだというのだ。

 じっとイワシを見る。見れば見るほど似ているのである。あの、探し求めている魚、ニシンに。
 流線型の魚である。青魚である。生食用である。物の本によると、ニシンは「カドイワシ」とも呼ばれるという。似ていると判断したのは私だけではないらしい。

 「ニシンの代わりにイワシを使おう!」

 イワシは、ニシンに比べれば小型である。それを計算して5尾買った。これでマリネを作る。たぶん、何とかなるはずである。

 部屋に戻り、早速調理を始めた。
 イワシをさばくのに包丁はいらない。身が柔らかいから、手開きといって、手だけで3枚におろせる。
 3枚におろし、骨抜きで小骨を取ってピチットでくるむ。3時間たって冷蔵庫から取り出し、軽く塩をふり、一口大に切って例のドレッシングに漬け込む。これでいい。

 今回は、ドレッシングの味を魚に充分染みこませよう。ということで1週間置くことにした。食べるのは、次週の土曜日である。ニシンの代わりにイワシを使うというひらめきが正鵠を射たのかどうか、1週間たてば判明する。

 ここまでは何事もなく淡々と歴史が進んだ。事件が起きたのは、翌日だった。日曜日の夜である。

 「礼人さん、いますか?」

 午後9時頃、私が単身生活する部屋を訪れた人間がいる。他人が乱入する可能性がもっとも小さい時間帯に、いったい誰だろうといぶかりながらドアを開けると、職場の後輩N君が立っていた。

 「ビール買ってきたんですけど、一緒に飲みませんか?」

 いや、ビールを飲むのはいいが、家庭持ちでもある彼が、日曜日のこんな時間に、いったい何用あって我が部屋を訪ねてくるのか?
 私が知る限り、人目を忍んで男二人、ベッドのある部屋で会わなければできないことを楽しむような趣味は、彼にはない。
 私にもない。
 とすると、妻女と決定的な諍いをして顔を見るものいやになり、自宅を飛び出してきたのか?
 あるいは、妻女に叩き出されて、ほかに行くあてもないため我が部屋を目指したのか?
 諍いの原因は?
 浮気でもばれたか?

 「いやあ、今日も仕事をしてしまいましてね。いままで会社にいて、夕食も食べていなかったものだから、ここにきたら何かあるんじゃないかと思って」

 おいおい、我が家は食堂でもレストランでもない。だったら、自宅に戻って愛妻の手料理でも食べたらよかろう。

 「ま、ええやないですか。ちょっと礼人さんと酒を飲みたくなったということで」

 ま、相手が見目麗しい女性でないところに不満は残るが、このように後輩から慕われることが気持ち悪いはずはない。

 「ま、立ち話も何だから、あがれよ」

 私は彼を、部屋に招じ入れた。

 

 

(注)
念のために書き添えておく。
N君は、私の手料理の味の良さに惹かれて訪ねてきたのではない。
彼が名古屋に転勤してきた最初の日、昼食に、会社のそばでスパゲティを食べた。
「いやあ、礼人さん、名古屋ってええやないですか!」
「?」
「このスパゲティ、いいなあ、これ」
私の口には、スパゲティとは名ばかりの、うどんの化け物のような食べ物だった。ソースもまずい。
「何がいいの?」
「だって、この値段で、このボリュームって、東京じゃあまずお目にかかりませんよ。どうですこれ、東京じゃ大盛りでもここまでの量はありません。お値打ちやわ。名古屋の人はいい暮らししてるわ」

食べ物にこの程度の理解しか示さない人間に、私の料理が分かるはずがないのである。

 

 日曜の夜が更けて、狭いワンルームマンションで、男二人ビールを飲む。
 このようなシチュエーションでも、おつまみはほしくなる。が、ここは

 「うーん、マグロのカマトロとイワシね」

 といえば注文通りのものがテーブルに姿を現す「小菊」ではない。

 「何かないかなあ」

 とつぶやけば、やがてあり合わせのものが運ばれてくる、我が横浜の自宅でもない。
 おつまみがほしい、と思えば、私が、自分でおつまみを用意するしかない単身生活のワンルームマンションなのである。

 底抜けにお人好しの私は、言わなきゃいいのに、思わず言ってしまった。

 「イワシのマリネって知ってる?」

 普通、「マリネ」なんて言われて、その意味内容が直ちに分かる人は、少数派である。「イワシ」と言われて分からない人は、これも少数派である。
 N君は、あらゆる意味で多数派に属した。

 「えっ、何ですかそれ? でも、俺、イワシって好きなんだよなあ」

 後の後悔先に立たず。後に引けなくなった。

 「いや、デンマークの料理なんだけどね。本当はニシンで作るらしいんだが、ニシンが手に入らなくて、イワシで作ってみたのよ。食べる?」

 「それって、ひょっとしたら、礼人さんが、自分で作ったんですか?」

 「そうだけど」

 「食べる、食べる。食べてみたい。食べさせてください」

 自分で作った料理を所望されて気を悪くする人間は、まずいない。
 1週間先に食べるために仕込んでいた料理で、これがなくなれば、また何かを作らないと食事ができないのだが、所望され、懇願されれば頬がゆるむ。

 「そう? 食べてみる?」

 冷蔵庫の扉を開け、恭しく両手で捧げ持ってテーブルまで運んだ。もったいをつけるためではない。こうしないと、ドレッシングがこぼれてしまうためである。

 「いやあ、なんか、本格的な料理に見えるやないですか。すごいなあ。いただきまーす」

 「N君、これさ、俺の来週用の食料なんだよな。そこを理解して、このー、慎重に食べるというか、おずおずと食べるという、とにかく、よろしく頼むよ」

 「うわー、これ、美味いっすよ。礼人さんも食べませんか? ホント、美味いっす。この、酸っぱいところが何とも言えませんねえ。俺、イワシって大好きなんですよ」

 自分が作った食べ物を、目の前で、本当に美味しそうに食べてくれる人の姿を見るのは、決していやなことではない。むしろ、心楽しいものである。心地よいものである。専業主婦たるもの、自分の料理を美味そうに食べる亭主、子供の姿を眺めるのが最大の楽しみなのではないかとすら思えてしまう。
 が、この状況では、

 めでたさ 

 に似た心境である。
 なにしろ、いまN君がパクついているのは、来週の私のメインディッシュなのである。
 そもそも、こいつ、人の話を聞く耳と、話の中身を理解する脳を持ち合わせているのか?

 グビグビ、パクパク、グビーッ。
 イワシが、見る見る減る

 「へーっ、礼人さん、こんなこともできるんですねえ。ほんと、いいなあ、これ。能ある鷹は爪を隠す、能ある豚はへそ隠す、ってヤツですか。憎いなあ、もう」

 私は、誉められるのは好きである。心から好きである。いつも誉められたいと思っている。
 だけど、この状況で誉められてもなあ……。
 なにしろ、イワシが減るのである。
 こいつ、遠慮、という美しい日本語があることを知らないのか?

 グビグビ、パクパク、グビーッ。

 「ふーっ、ホントに美味かったなあ。ごちそうさま!」

 イワシが、消えた。完全に、消えた。ドレッシングだけが残った。

 「それじゃあ、日曜の夜に遅くなるのもあれだから、そろそろ失礼しますわ。お休みなさい。また寄せてもらいます」

 「ああ、お休み」

 N君も、消えた。完全に、消えた。私だけが残った。

 私は、後かたづけをしながら、さて、来週は何を食べたらよかろうと考え込んだ。

 

 昨夏、当時の仲間が集まって、「小菊」で酒を飲んだ。

 「N君さあ、名古屋の俺の部屋で、イワシのマリネを食べたの、覚えてる?」

 「えっ、マリネって何でしたっけ?

 「ほら、トマトやら玉ねぎやらが入った酸っぱいドレッシングに漬け込んだヤツよ」

 「あー、そういえば、そんなことありましたね。うーん、何か美味かったような記憶があるなあ」

 忘恩とまではいうまい。が、せっかく用意したメインディッシュが消え去り、新たに調理という労働を経なければ夕食にありつけなかった遠い週末を思い起こしながら、いまの世の中で、恩義を感じるというのは、せいぜいこの程度のことだと思い知らされたのである。

 


【初出2004年1月23日】
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