グルメに行くばい!   第1回 :みそ汁

 お袋の作るみそ汁が、嫌いだった。
 理由はただ一つ。不味い!
 食卓にみそ汁が乗ると、

 「またか」

 と、憂鬱になった。
 毎朝食卓に出てきた。
 毎朝憂鬱だった。

 一日の始まりをこんな気分で迎えるのは、精神衛生上、極めてよろしくないはずだ。いまなら、憂鬱さを一日引きずりそうである。
 だが、当時は、みそ汁とはこのようなものである、としか思わなかった。お袋の作るみそ汁しか知らないのだから、ほかに考えようがなかった。
 おかげで、グレもせず、元気に学校に通った。

 汁を飲んで美味しくないだけではない。お袋のみそ汁には、ダシをとるのに使った煮干しが、そのままの姿で入っていた。口に入れると、煮くずれた、頼りない歯ごたえの中から、何とも言えない苦みが染み出した。
 こんなに不味いものを、どうして食べなければならないのか。お袋に問いただしたことがある。

 「みそ汁っち、いっちょんうもなか。なんで食べんとでけんと?」
 (邦訳:みそ汁というのは、ちっとも美味しくない。なぜ食べなければならないのか?)

 「身体に良かつよ。煮干しも残さんと食べんね。煮干しは骨になっとやけん。うもなかっちゃ、薬と思て食べんとでけんよ」
 (邦訳:体にいいのよ。煮干しも残さずに食べなさい。煮干しは骨になるのですから。美味しくなくても、薬と思って食べなければいけませんよ)

 

 

(余談)
すでに80歳をこしたお袋は、女学校卒である。この年代としては極めて高学歴な部類に属する。ま、ちょっとしたインテリである。だからであろう。煮干しの「栄養価」を説明し、子供の口に入れさせようとした。本来、感覚の部類に属するものを、理屈で説明する。これを、頭でっかちという。インテリによく見られる、悪い癖である。
事実はこうである。不味いものは不味い。どんな説明をされても、不味い。食い物は頭で味わうものではない。舌で味わうものなのだ。

1つだけお袋を評価しておこう。彼女の考え方は、「医食同源」である。人間は食べ物を口から入れ、残りかすをケツから出して生命を維持している生き物だ。口から入れるものは、血となり肉となり骨となり、エネルギー源となる。栄養価に気を配り、正しい食事をしていれば健康な体ができる。病気にはかかりにくい。
彼女の説明は、実に正確であったのだ。私が気付いたのはずっと後だが。
でも、やっぱり口から入れるものは美味しいにこしたことはない。あとで知ったことだが、世の中には、美味しいみそ汁も、実は存在しているのである。

ついでだが、彼女は、私に本を読ませようとした。だが、貧しかった我が家には、子供の本にまで回せる金がなかった。私は、歩いて30分ほどかかる親戚まで本を借りに行かされた。「少年少女世界文学全集」「少年少女日本文学全集」(というようなタイトルが付いていたように記憶している)。私が本を読んでいると、彼女は機嫌が良かった。
しかし、読書は強制されてやるものではない。当時、義務として読んだ本は、ちっとも記憶に残っていない。
その反動だろう。私は、高校を卒業するまでほとんど読書をしなかった。「中欧編 V」で書いたように、高校の国語の授業で、「吾輩は猫である」を読んでいなかったために恥をかいた原因の一端は、お袋にある。
子供は、親の思い、願いの通りには育たない。

 

 そんなことを言われてもねえ……。
 俺は、毎日、薬を食べなければならないのか?
 そもそも、俺は薬で育つのか?

 そんな高等な反論は、当時は思いつかなかったが、毎日の食事は、ちっとも楽しくなかった。

 とはいえ、成長期は、情けないほど腹が減る。どんぶり飯を3杯、4杯食べたところで、2時間もすると腹の虫が鳴き出す。1日に少なくとも3回、できれば4、5回、何かを胃袋に収めないことには、食い物のイメージが我が頭の中を走り回る。どんな美人が目の前を横切ろうと、ねっとりとした視線を送るゆとりはない動物としての本能にむち打たれながら、食い物にかぶりつくしか選択肢はない。
 美味かろうと不味かろうと。

 こんな不味いものがなければ成立しない日本の伝統的食事とは、まことに不自由なものである。
 日本に生まれたことを恨んだ。食い物の恨みは恐ろしいのである。

 「えっ、みそ汁ってこんなに美味しいものだった!?」

 22歳の時、突然開眼した。

 何を間違ったのか、大学生3年の3月に結婚した。当時、23歳。不思議なことに、22歳だった新婦は大学を卒業する直前だった。
 ん? 俺より年下の人間が、俺より先に大学を卒業する?!
 時間の流れは、たまに乱れる。そうでなければ、名画「Back to the Future!」は成立しない。

 

 

(余談)
どうでもいいことだが、23歳にもなって大学3年生だったのは、人よりたくさん勉強をしようという意欲が強すぎたためである。勉強ができなかったのでも、さぼったのでもない。
いいわけに聞こえる?
………………………………。

 

 結婚するとなれば、やはり相手の両親にご挨拶に行かねばなるまい。
 私は福岡市に下宿していた。新婦になる人は横浜の人だった。
 夜行列車で、20時間もかけて横浜まで出かけた。

 大学生である。日々の生活に必要のないスーツなど、持っているはずがない。手持ちの衣料で一番まともだったのは、Gパン丸首のセータ、それにアーミージャケットだった。
 髪をカットするお金も、貧乏学生には惜しかった。自然、髪は伸びる。ロングヘアーである。とはいえ、理髪店に行かないために長くなっているだけだから、今の若者のロングヘアーのように、デザインされているわけがない。ただ、長いだけのロングヘアーである。
 靴? バスケットシューズに決まっている。

 私は、このような出で立ちで横浜に乗り込んだ。

 挨拶をして、彼女の親父としこたま酒を酌み交わして、一晩泊めてもらった。
 そして翌朝。
 食卓にみそ汁が乗っていた。

 やっぱなー、日本の朝はみそ汁なんだよなぁ。横浜まで来て、みそ汁を飲むのかね。ま、仕方ないか。

 出されたものに箸を付けないのは極めて失礼である、程度の常識は、学生ながら備えていた。私は、教養豊かな常識人なのである。素っ頓狂な出で立ちは、単に、貧しさが表に現れた結果に過ぎない。
 仕方なしに、みそ汁に挑んだ。

 「えっ、みそ汁ってこんなに美味しいものだった!?」

 何とも、美味しかった。我が家で飲まされ続けたみそ汁がスッポンなら、これは月だった。

 

 

(余談)
と書いたら、
「スッポンの方が美味そうだ」
との指摘を受けた。なるほど。
で、ここで書き直す。
「我が家で飲まされ続けたみそ汁が
提灯なら、 これは釣鐘だった」

 

 同じ「みそ汁」で、こんなに味が違う!?
 口には出さなかったが、心底驚いた。世の中には美味いものがある! 同じ呼び方をされても、こんなに違いがあるものなのか!
 何ともいえず、こくと深みがあった。旨みとしか表現しようがない味も感じた。香りが食欲をそそる。口に含み、飲み下すと、身体が喜んだ。

 「すいません。みそ汁をお代わりしていいですか」

 思わずお椀を差し出していた。

 

 

(余談)
自宅では方言丸出しだった私だが、大学にはいるとすぐに標準語を身につけた。九州の大学で、まわりはほとんどが九州出身者で、九州各地の方言が飛び交っていたにもかかわらず、である。
東京に出て、我がフィアンセの友人に会って話していると、
「生まれは東京?」
といわれた。
論理的な思考、論理的な話術には、人工言語である標準語が合う。私は、誰に言われたわけでもなく、独力でアカデミズムの中枢に迫る言語ツールを、いつの間にか獲得していた。才能と呼ぶほかはない。
いずれにしても、私の語学の能力は人並み優れているのに違いない。
もっとも、日本語にしか通用しないようだが。

 

 挨拶に行った報告をするため、自宅に戻った。
 やっぱり、みそ汁が出た。
 やっぱり、不味かった。

 結婚するまでに、何度か横浜にお邪魔した。みそ汁が楽しみになった。
 楽しみが重なると、
 「何故?」
 という探求心が頭をもたげる。同じみそ汁の、この味の違いは何なのか? 何故なのか?

 その原因を探った。
 味噌が違うのか?
 あり得る。両家の経済力が違う。

 それでもなあ。我が家が100g 50円の味噌で、横浜が1000円の味噌ということもあるまい。
 それに、どんなに価格の違いがあったにせよ、同じ味噌である。それだけで、こんなに味が違ってくるか?

 とすれば、秘密は調理にあるのに違いない。いったい、何が違うのか。それを見つけなければ、死んでも死にきれない。
 さりげなく、台所に目を配った。

 あれっ、これかな?
 ピンと来るものがあった。

 ダシをとる煮干しの量が違うのである。我が家の1.5倍から2倍はある。ダシをとったあとの煮干しが鍋から出されるのはいうまでもない。

 「ひょっとしたら、たくさんの煮干しでキッチリダシをとるのが、美味いみそ汁を作る秘訣なのではないか?」

 新しい発見は、心楽しいものである。煮干しの量の違いという重大な事実に気がついた私は、世界の神秘の1つを我が手で暴いたような満足感に包まれた。その日のみそ汁は、心なしか、いつもよりさらに美味しかった。

 それまでの私にとって、食事は空腹を満たすものだった。1日に3回とればいいものだった。確かに、美味しいにこしたことはない。しかし、そもそも、美味しいものをあまり知らなかった。目の前にあるものを食べるしかない。

 どうせ食べるのなら、食べなければ露の命が維持できないのなら、美味しいものを厳選したい。不味いものは口にしたくない。
 それをグルメな生き方という。

 1杯のみそ汁が、やがて自称「グルメ」を生み出す。
 自称「グルメ」が活動を始めるのはずっと後のことだが、出発点は、間違いなく、このみそ汁だった。

 活動を始めた後の自称「グルメ」は、美味しいみそ汁を作るのはそれほど難しくないと考えている。

 ポイントは、

 

1,

きっちりダシをとる
煮干しを使う場合は、たっぷりめに用意した煮干しの頭とはらわたをはずす。そのうえで、前日の夜から、この煮干しを水につけておく。翌朝は、そのまま火にかける。
火にかけると、当然のことながらやがて沸騰する。沸騰し始めたら、臭いに注意する。注意して、煮干しのいい香りがし始めたら火をいったん止める。それ以上沸騰させ続けると、煮干しの魚臭さまでがダシの中に出てしまう。
ダシがとれたら、煮干しは捨てる。栄養価のほとんどが溶けだしており、いわば「出しがら」になっているから、食べても美味しくない。
昆布と鰹節でとる場合は、まず水に利尻昆布を入れ、火にかける。沸騰したら昆布を引き上げ、代わりに鰹節をいれて1、2分沸騰させる。鰹節はこしとる。引き上げた利尻昆布と鰹節は捨てずにとっておく。あとで酢昆布、佃煮にするためである。

2,

このダシで、みそ汁の具を煮る。煮る時間は具の種類による。煮すぎると美味しくない。食べ頃になるちょっと手前で火を弱める。配膳するまでにはまだ時間がかかる。熱くなったダシの中に入っている具は、火を弱めても加熱され続ける。この段階で食べ頃にまでしておくと、配膳したときには煮すぎになってしまう。
3,

味噌を入れる。お玉にとってダシと合わせながら溶かしていく。時々味見をし、味噌の投入量を判断する。

4,
再び加熱する。加熱して、沸騰する寸前に火を止める。決して沸騰させてはならない。

 

 これだけである。簡単でしょ?

 と書いて、我が畏友「カルロス」に原稿を読んでもらった。
 前にも書いたが、彼はプロのシェフである。自分のスペイン料理専門店を持っている。スペイン大使館でパーティがあると、彼が呼ばれて料理を作る。ネットで見ても、彼の店の評価は高い。
 彼の味覚、彼の料理の腕は、私が認めるところである。
 しかも、彼は我が大学の後輩である。最高学府まで進んだためか、食べ物に関する彼の知識は深い。

 今回の連載の監修は、彼に依頼することにした。「とことん合理主義 - 桝谷英哉さんと私 第12回」に書いた「10万円のアドバイス料金」はまだ私の口座に振り込まれていない。彼に、私の依頼が断れるわけがない。

 1つだけ指摘された。

 「いりこ(煮干し)は、もともと保存食品で大漁で余剰を長いあいだ、少しずつ食べるためです。元々、いりこは全部食べるのを前提に、作られた食品なのです! したがって、貴兄の母上の方がただしいのであります。出汁が出きったとありますが、お茶と同じで、栄養分はほとんどいりこ本体にのこります。したがって、先人は出汁をとった後のいりこを、佃煮にしたり工夫したのです」

 これが、指摘の全文である。あまり上質な日本語ではない。はっきり言えば、下手な日本語である。

 それはそれとして、読者サービスとして、佃煮の作り方を書き加えることにした。

 

1,

フライパンに少量のごま油を入れて火にかける
2,

種をはずした唐辛子を輪切りにする

3,
ダシをとって鍋から引き揚げた煮干しの水を切り、唐辛子と一緒にフライパンに入れ、まず砂糖、次に醤油、さらに醤油と同量の水を加え、最後に照りをつけるためにみりんを入れていためる。量は砂糖3、醤油3、みりん1の比率。もちろん、この比率を好みによって変えるのは、全くかまわない
4,
出来上がった佃煮を食器に移し、小ネギを刻んでふりかけ、ご飯に乗せて食する

 

 お試しあれ。

 


【初出2003年7月4日】
▲【グルメらかす】にもどる               

*当サイトの記事及び画像の無断転載は禁止します。
*ご意見・ご感想・お問い合わせはメールでお願い致します。