#77 チャンプ―自分のズボンを脱げなくなったら

 今回は通常の2倍の手間をかけた。従って、渾身の力作である。勝手な思い込みは、私の特技である。

 突然だが、妻と銀座に出かけた。妻は足が弱い。長距離移動にはマイカーが必需品だ。
 車の美点は移動の自由である。泣き所は所要時間が読めないことだ。渋滞にぶつかれば、予定時刻に到着できない。
 首都圏では、渋滞は日常茶飯事だ。

 以上が所与の条件である。知性ある人間は条件が明示されれば最適解を導き出す。
 ついでにいえば、私には知性がある。私は最適解を見出し、採用した。

 「少し早めに出かけようや」

 予定の2時間前に銀座に着いた。渋滞は皆無だった。
 時間が余った。昼食時だったので、ガード下のイタリア料理店でスパゲティを食べた。まずかった。さらに困ったことに、まだ大量に時間が余った。

 古女房と時間を潰す。最も困難な作業の部類に属する。何しろ、30年以上もともに暮らしているのだ。年季の入った夫婦は、

 飯、風呂、寝る

 でコミュニケーションがとれるといわれる。我が家は年季の入った夫婦の鑑である。飯、といわなくても飯が出る。風呂、といわなくても風呂が沸く。寝る、などと話しかけたことはない。
 振り返ろうと首を動かすと、

 「ビール?」

 と返ってくる。こんな夫婦は、喫茶店での会話では時間を潰せない。青二才夫婦とはレベルが違う。

 で、銀座・東芝ビルのHMVを目指した。幸いないことに、映画と音楽は共通の趣味だ。それぞれ勝手に店内を見ていれば時間は潰れる。
 そこで、出会った。「チャンプ」の1931年バージョンDVD、1575円。

 折悪しく、新たな原稿を書く準備が整っていた。「チャンプ」。父子愛を描いた傑作である。制作は1979年。1931年作のリメイクである。私はオリジナルは見たことがないが、ま、いい。できが良ければ、リメイクでもオリジナルでも構わない。そう思い定めていた。
 ところが、目の前にオリジナルがある。

 選択肢が2つあった。
 目の前のオリジナルを無視して、あくまで初期の方針を貫く。
 目の前にオリジナルがある。人様にお読み頂こうという文章を書こうという人間にとって、できる限りの努力をするのは当然である。

 私は努力を惜しまないタイプだ。いつしか財布を取り出していた。

 「これちょうだい」

 かくして、1本の原稿を書くのに、映画を2本も見た。見た結果は? 
 よろしい、一言で申し上げよう。

 出藍の誉れ

 1931〜32年のアカデミー賞で、このオリジナル作品に脚本賞を与えた審査員は鑑識眼がなかった。それとも、他がひどい作品ばかりだったのか?

 ここで取り上げる「チャンプ」は、もちろん、藍より出でて藍より青くなった79年作品である。 それにしても、こんな駄作をリメイクしようなどと、誰が考えたんだろう?

 

 ビリーはボクシングの元世界チャンピオンだ。7年前にリングを降りた。

 

ビリー:

Hey, good boy, do you know why I lost the title? Because I didn’t care.
(どうして俺がタイトルをなくしたか知ってるか? どうでも良くなったんだ)

 

 妻のアニーが突然出奔したのである。生まれたばかりのT.J.と取り残された。酒とギャンブルの日々が始まった。いま、37歳。

 ビリーは競馬場の厩務員である。貧しい。だが、男手一つで育てたT.J. は8歳になり、父をチャンプと呼ぶ。心から元チャンピオンの父を敬い、愛している。なのにビリーは、酒とギャンブルから縁が切れない。栄光から逃げ出した自分から逃げ続ける日々だ。

 ある日、T.J.の貯金箱から20ドルくすねて賭場に向かった。人生には、やることなすことすべてが当たる日がある。20ドルが、なんと6400ドルに化けた。
 ビリーならずとも、持ち金が320倍に膨れたら舞い上がる。舞い上がったビリーは、最愛のT.J.に大きなプレゼントをした。競走馬である。名前は She’s a lady。それが、2人の運命を大きく変えることを、ビリーは知らない。

 She’s a lady初のレース。トップグループでホームストレッチに入った She’s a lady がもんどり打って転倒した。T.J.はスタンドを飛び出して She’s a lady に向かって走った。ビリーもT.J.を追い掛けた。
 それをスタンドから双眼鏡で見ていた女性がいた。アニーである。レースが始まる前、ふとしたきっかけでT.J.と知り合った。自分の馬が勝つと自信たっぷりに話すT.J.が可愛くなり、馬券を10ドルだけ買った。
 あの子の馬が転倒した。可哀想に。えっ、T.J.の後ろから駆けているのはビリー? ということは……?
 アニーは、T.J.が7年前に捨てた自分の子供だった。

 7年前、パリに出てファッションデザイナーになるという自分の夢に賭けた。生まれたばかりのT.J. は置き去りにした。
 仕事は成功した。大学教授の新しい夫もできた。順風満帆の人生だった。ところが、ファッションショーを開くためクルーザーで夫とやってきたこの地で、会うはずのないT.J.と会った。触れずに隠し通してきた傷がぽっかり口を開いた。血が噴き出した。

 アニーは吸い寄せられるように厩舎に向かった。もちろん、ビリーに歓迎されるはずはない。

 

ビリー:

Do you know what I told him? I told him you died, that you were killed in a car wreck. That you were a tramp and we’re better off without you. You are dead. Do you understand that? You are dead. The kid’s got no mother.
(俺がT.J.に何といったか分かってんのか? お前は自動車事故で死んだことになってんだ。売春婦みたいな母親はいない方がましだってな。お前は死んでるんだ。分かったか? お前は死んでる。T.J.に母親はいない)

 

 とりつく島もなかった。その時、顔を輝かせたT.J.がビリーに駆け寄った。馬の傷はたいしたことないんだって。チャンプと去りかけたT.J. に、アニーは勇気を奮い起こして話しかけた。

 

アニー:

T.J., we have this other matter to discuss. I bet on her. You owe me a flat ten bucks. The name’s is Annie.
T.J.、話しがあるの。私、貴方の馬に賭けたのよ。あなた、私に10ドル借りができたわ。私、アニーっていうの)

 

 母とは名乗らなかった。頑なだったビリーの心が、ほんの少し緩んだ。

 

ビリー:

It was nice to meet you, Annie. Maybe I’ll take you up on that invitation sometime.
(アニー、あえて良かった。ご招待、そのうちお受けすることにします)

 

 母と名乗らないのなら、会わせてやってもいいか。

 その日、ビリーは車でT.J.をクルーザーに送り届けた。新品のスーツを着せた。ネクタイも結んでやった。
 迎えに行くと、T.J.は本革のサドル、立派な手綱を抱えてクルーザーを降りてきた。高価な土産である。それを見て、T.J.を待つ間に射的で取った人形をそっと捨てた。T.J.にプレゼントしようと思っていたものだ。自らの貧しさが際だった。惨めだった。

 その日、荒れた。賭場に繰り出し、サイコロ賭博に狂った。ビリーは金が欲しかった。アニーに負けてたまるか! ついていた。かなり稼いだ。もう一稼ぎしようと考えていた時、ビリーを訪ねてきた人物があった。アニーの夫、フィリップスである。

 

フィリップス:

T.J. won’t always be 8 years old. He’s a very bright little boy. What happens when he finds out that he has a mother and that she loves him and that she wanted to be with him sometime and only you wouldn’t let that happen? How are you gonna handle it ?
T.J.はいつまでも8歳のままではない。彼は聡明な少年です。実は母親がいて、T.J.を愛していて、会いたいと思っているのに、おなたがそれを許さないと彼が知ったらどうなります? あなたはどうするつもりです?)

 

 動揺した。つきが逃げ、負けがこんだ。2000ドル。賭け屋に借金ができた。返済期限は2日間。払えなければ代わりに She’s a lady. を取られる。

 チャンピオン時代に面倒を見たヤツに頼めば 2000ドルぐらい軽い。ビリーは簡単に考えていた。だが、人情は紙より薄い。負け犬からはみんなが逃げ出す。
 T.J.が心から愛する She’s a lady. を奪われる。それだけは避けたい。せっぱ詰まったビリーは、最も頼みたくない相手を訪ねる。アニーである。

 

ビリー:
I need a favor. You know all those guys. Remember when I was on top? I was a certain kind of guy, Now people forget. You don’t wanna hear about this, what I’m talking about.
(ちょっと頼みがあってな。知ってるよな、俺がチャンピオンだった時に面倒を見てたヤツら。あのころ俺はいっぱしだったが、みんな忘れやがった。ああ、こんなこと聞きたくないよな)
アニー:
Billy, Billy, Why don’t you tell me and let me decide?
(ビリー、話して。私が判断するから)
ビリー:
2000 dollars, I need 2000 dollars.
(2000ドルだよ。2000ドルいるんだ)
アニー:
Okay.
(分かったわ)
ビリー:
It’s no big deal, I want you to understand that. It don’t make no difference to me if you give me the money or not. I still feel the same way about what you did. I don’t know when I can pay you back.
(まあ、たいした金額じゃない。そうだよな。お前が金を出そうと出すまいと、俺たちの関係はこれまで通りだ。お前のやったことは許さない。それに、いつ返せるかも分からない)
アニー:

It doesn’t matter.
(いいわ)

 

 惨めだった。だが、これでT.J.を失望させることはない。それだけが救いだった。だから、殴ってしまったのだ。これほどの恥を忍んで用意した金を受け取ろうとせず、She’s a lady. を運び去ろうとした賭け屋を。
 恥を忍び、惨めさに耐えた。それなのに……。ビリーは狂った。賭け屋を殴り倒し、止めに入った警察官まで傷つけた。逮捕された。

 俺はだめな男だ。T.J.の唯一の夢である She’s a lady. ですら守ってやることができなかったじゃあないか。挙げ句の果てが檻の中だ……。

 T.J.がやってきた。

 

T.J.:

I thought you might be hungry. I brought you something to eat. I brought you some ribs.
(お腹空いたんじゃないかと思って食べ物を持ってきたよ。スペアリブなんだけど)

 

 この子は素晴らしい子だ。本当にいい子だ。俺にはもったいない。ビリーは身を切られるような決断をする。

 

ビリー:
I don’t want you to call me Champ no more.
(もう俺のことをチャンプと呼ぶな)
T.J.:
Why?
(どうして?)
ビリー:

A Champ don’t use his fists nowhere but in the ring.
(チャンプってのは、リング以外では殴らないもんなんだ)

 

 そして、命じた。いいか、お前は今日からアニーと暮らすんだ。
 T.J.は頑強にイヤだと言い張った。

 

T.J.:

All I want is to be with you. Please, Champ, I’ll be somebody when I grow up, someone like you!
(僕は一緒にいたいんだ。ほかに望みなんかない。お願い、チャンプ、大きくなったら立派な大人に、チャンプのような男になるから!)

 

 T.J.を平手で殴った。初めてだった。頼む、自分に絶望した父親の愛を理解してくれ。お前はアニーといた方が幸せだ。

 アニーのクルーザーに追いやられたT.J.は、食事も取らない。寝るために靴を脱ごうとすると、ひもが絡まっていた。そばにいたアニーが思わず口走った。

 

アニー:

Let your mother do.
(お母さんにやらせてよ)

 

 T.J.は凍り付いた。アニーも凍り付いた。何とか説得しようとするアニーからT.J.は逃げ回った。

 

T.J.:

Go away! Please don’t touch me. I don’t want you. I don’t want you. Go away! Go way! I told you go away! Go away, go away! I want Champ! I don’t want you. I want the Champ! I want Champ! Yeah, I want Champ! I don’t want you. I want to go back to the Champ! I want Champ! Get out here!
(どっかに行っちゃえ! 僕に触るな。あんたなんか嫌いだ。嫌いだ。行け、行っちゃえ! いなくなれって言ってるだろ! 行け、消えろ! チャンプがいい! あんたは嫌だ。チャンプがいい、チャンプだ! そうさ、チャンプなんだ! 嫌だ、チャンプのところに戻るんだ! チャンプがいい! 出ていけ!)

 

 ある夜、アニーが厩舎に訪ねてくる。T.J.はビリーのもとに逃げ帰っていた。アニーが母親であることをT.J.は知ってしまった。だから、話し合いたい。
 だが、やはり言い争いになった。激しい言い合いを続けていたビリーの口から、思いもかけない言葉が飛び出した。

 

ビリー:

You can always come back. We’ll take you back. We’ll give you the second chance.
(いつでも戻ってきていい。俺たちは受け入れる。2度目のチャンスをやろうじゃないか)

 

 隠し通してきたが、ビリーの胸には、もう1つの愛が燃え続けていた。憎んだ。もっと憎もうとした。だが、どうしてもアニーへの愛が消えない。T.J.といれば、いつかはアニーが戻ってくる。どこかでそう信じてきた。
 だが、アニーはにべもなかった。

 

アニー:

I can’t. I have a husband, Billy.
(それはできないわ。私には夫がいるのよ、ビリー)

 

 ビリーは頽(くずお)れた。頽れながら、ある決意を固めた。

 

ビリー:

I know what I got to do.
(やらなきゃ行けないことは分かってる)

 

 翌朝からトレーニングを始めた。俺はリングに戻る。
 チャンピオン時代のトレーナー、ジャッキーは止めた。頭痛がするだろ? あんたは現役時代にパンチをもらいすぎたんだ。命に関わる。諦めろ。
 ビリーは引かなかった。T.J.のため? T.J.を育てる資金を得るため? アニーの愛を取り戻すため?
 ビリーは男になりたかった。強い男、信念を持った男、世界の頂点に立つ男。もう逃げ回るのはやめだ。俺は男になる!

 

ビリー:

I’m taking this fight, Jackie, for me and my boy. Nothing’s gonna stop me. With you or without you, I made up my mind. Look, I’ve got to do something for my boy. A home, a good school. You know I can’t make that kind of money walking horses. I need you,. I need you with me.
(ジャッキー、こいつは俺とT.J.のための戦いだ。何があってもやる。お前がいてもいなくてもだ。俺の心は決まってる。なあ、俺はT.J.にやってやんなきゃいけないことがあるんだ。家、いい学校。そんな金は馬の世話をしてたって稼げやしない。お前が必要なんだ、頼む)

 

 ビリーは戦った。T.J.のために戦った。アニーのために戦った。何より、自分のために戦った。元チャンピオンの誇りを持って戦った。
 左フックでカウント8のダウンを奪った。第5ラウンド、執拗なボディ攻撃で2度ダウンを奪われた。ゴングに救われた。目の前が霞む。戦えるか?
 戦うとも
 第6ラウンド。ゴングとともにファイティングポーズを取り、リング中央に進んだ。そして、奇跡が起きた。33秒、右からの強烈なフックだった。

 T.J.が涙で顔をくしゃくしゃにしながらリングに上った。観衆が熱狂した。栄光が戻った。

 ローソクは燃え尽きる直前、炎がひときわ輝く。生命が最後の深呼吸をするのだ。再起戦のビリーは、燃え尽きる直前のローソクだった。

 ビリーは控え室までたどり着けなかった。譫言(うわごと)のように

 

ビリー:

I got to collect the bets.
(掛け金を集めなくちゃ)

 

 と言い続けながらドアの前で倒れた。
 控え室のベッドに横たわったビリーの体から、生命が急ぎ足で逃げて行った。

 

ビリー:
T.J., where are you?
T.J.、どこにいる?)
T.J.:
Here I am.
(ここだよ)
ビリー:
Yeah, T.J.. Annie was here tonight, T.J.. Wasn’t that a nice thing?
(そうか。T.J.、アニーが来てたな。T.J.、よかったろ?)
T.J.:
Yeah.
(そうだね)
ビリー:
You invited, didn’t you?
(お前が呼んだのか?)
T.J.:
I wrote to her you said to.
(招待しろってチャンプが言ったと手紙に書いたんだ)
ビリー:
Yeah, it was nice of her to come. You know, T.J., you know Annie and me. We did some silly things. Who knows why people do what they do? Nobody knows that. But she’s, she’s a good person. You know that.
(ああ、アニーが来て良かった。なあ、アニーと俺のことは分かってるよな。俺たちはバカなことをした。でも、自分がやってることの意味なんて誰も分かっちゃいないんだ。ああ、誰にも分からないのさ。でも、あの人はいい人だ。それは分かるよな)
T.J.:
Champ!
(チャンプ!)
ビリー:
You are happy, kid. I won the fight. You are happy?
(気持ちいいだろ、T.J.。俺は勝った。幸せか?)
T.J.:
Yeah.
(うん)
ビリー:
Yeah.
(そうだな)
T.J.:
Champ. The Champ….
(チャンプ。チャンプは……)
ビリー:
Yeah.
(ん?)
T.J.:
always come through that.
(最後にはいつも勝つんだよ)
ビリー:

That’s right. That’s right, right….
(そうだな。そうさ、その通り……)

 

 そして、炎が消えた。

 T.J.は、目の前で起きたことが信じられなかった。いつもあんなに強かったのに。世界で一番強い男だろ? 今日も勝ったじゃないか!

 

T.J.:

No! Champ! No! Champ! Champ, Champ. What’s the matter, Champ? Champ, wake up! Wake up! Wake up!  Champ, wake up, Champ! Hey. Don’t sleep now. We got to go home. Let’s go home, Champ. Georgie, don’t cry, Georgie. Mister, help me! Wake him up! Wake him! Please wake him up! Jackie, wake him up! Wake him! I want Champ. I want Champ!
(ここは簡単だから、ご自分で翻訳してください)

 

 控え室に、T.J.の声が響き続けた……。

 

 気を張っていても、この最後のシーンにはどうしても涙腺が緩む。これからご覧になる方は、タオル、ないしはハンカチかティッシュをご用意されるよう、老婆心ながらお勧めする。

 だが、オリジナルの「チャンプ」は駄作である。できることなら、1575円を返して欲しい

 チャンプの名ははアンディ。やはり元世界チャンピオンだが、リングを降りたのは酒のせいである。どうやら、かなり酒を飲んでリングに上がり、負けたらしいのだ。過去の栄光に未練はあるものの、酒とギャンブルの魅力に勝るものではない。プロモーターにも酔っぱらったまま会い、バカにされる始末。
 そう、アンディは単なる頭のとろい殴り屋にすぎない。

 息子の名はディンク。チャンプが賭けで勝った金で手に入れた馬がレース中に倒れたおかげで別れた母リンダと再会することになる。再会の手段は、ズバリ現金
 200ドルやろう。まず半分の100ドルを渡す。残りはディンクがホテルに来たら渡すがどうだ?
 父のアンディはこの話に飛び乗ってしまうのだ。
 7年間の恨み辛み、出ていった女房への消えない思い、そんなものはどこにもない。金さえあれば酒が飲めて博打が打てる。それだけなのだ。

 まあ、粗筋は当然ながらほぼ同じだが、このオリジナル作品、チャンプも、その元妻も実に薄っぺらな人間性の持ち主である。

 新「チャンプ」に登場する人々は、それぞれ陰影に富んで印象深い。
 ビリーに知性はない。粗野としかいえない男である。だが、それだけならT.J.に敬愛されることはない。我々が心を揺すぶられることもない。
 彼は単なる殴り屋ではない。ボクシングで世界の頂点を極めた強い男でありながら、心から愛したアニーが去ったことに深く傷ついた弱い男でもある。その心の傷からどうしても逃れられず、酒とギャンブルに逃げる。逃げながら、逃げる自分を蔑み、逃げてはいけないと自分を叱る。
 酔って戻った夜、かいがいしく介抱するT.J. にいう。

 

ビリー:

Listen to me. I ain’t gonna drink no more. I ain’t gonna gamble no more. Do you understand that?
(なあ、もう酒はやめだ。賭け事からも足を洗う。分かったか?)

 

 T.J.への愛と、自己嫌悪が言わせた言葉だ。俺は立ち直る。
 だが翌日になると、やっぱり飲み、打つ。自堕落な生活で自分をごまかさないと、生きてはいられないのである。
 こんな鋭すぎる感性を持った男が、人間としての誇りを取り戻すため、恐れを振り切ってリングに立つ。この瞬間、彼は輝く男になる。

 T.J.の母、アニー。
 金の力で7年前に置き去りにした息子と会い、会ったとたんに、私がママよ、と名乗る安っぽいリンダには、おいおい、罪の意識はないのか? 人間性のかけらぐらい見せろよ! この身勝手なうすらトンカチ女! と反吐が出そうになるが、アニーは違う。
 T.J.を自分のクルーザーに招いても、母と名乗りたい気持ちを必死で抑える。私はこの子を捨てた女だ。母と名乗る資格はない。抑えきれないほどの愛おしさが胸に広がるのに戸惑いながらも、じっと耐えるのである。

 

アニー:

Let your mother do.

 

 と口走ってしまったのは事故だ。T.J.への愛が抑えきれなくなり、小さな隙間からほとばしりでたのである。だが、T.J.に激しく拒絶され、アニーの傷口は広がってしまう。そう、私の犯した罪はこれほどに大きかった……。
 過去に復讐される女。アニーも多すぎる陰影を持つ生身の女性なのである。

 オリジナルのディンクは単なる悪ガキだ。リンダに呼ばれてホテルに出向くと、待つ間にテーブルにあったキャンディやタバコをポケットに詰め込む。貧しい暮らしに心まで汚染されている。
 が、T.J.は違う。暮らしは貧しくとも、T.J.にはビリーへの尊敬がある。パパはチャンピオンだ。チャンピオンの子供はみっともないことをしてはいけない。だから、豊かさを絵に描いたようなアニーのクルーザーに招待されても、何かを盗もうなどとは考えもしない。誰もが愛したくなってしまうよい子である。唯一の欠点は、よい子過ぎて現実味が薄いことか?

 こうして新「チャンプ」は、数々の名シーンを残した。例えば、リアルなボクシングシーン。
 やや皮下脂肪が付き始めた37歳。だが、13歳年下を相手にするビリーの身のこなしは、まるで現役のボクサーのように切れがいい。やや手数が多すぎる嫌いはあるが、1発1発のパンチに体重が乗り、相手のボディに、顎に、こめかみにクリーンヒットして本当にダメージを与えているかに見える。
 できることなら、オリジナルの「チャンプ」の試合シーンと比べてみて頂きたい。反り身になって腕だけ振り回すアンディとの違いは一目瞭然である。

 記憶にどうしようもなく焼き付くのは、ビリーが事切れる最後のシーンだ。
 このシーンでT.J.が使う言葉は数少ない。しかも、私が翻訳をさぼってもいいほどやさしい中学英語ばかりである。
 Champが11回。
 wake upが、バリュエーションを含めて9回。
 あとは
 go home
 don’t cry

 程度である。
 私に演技の経験はない。なくても、同じ言葉を繰り返す演技の難しさは想像できる。
 かつて、ある俳優が言った。私に電話帳を1冊渡しなさい。私が朗読して皆さんの涙を誘ってみせる。そして、見事に涙を流させた。何かの本でんだエピソードだ。
 同じ言葉の繰り返しで観衆の胸に迫る演技をする。それは、電話帳を朗読するのに似ていはしないか。
 数少ない言葉で、最愛の父を失った悲しみ、怒り、絶望、不安、無力感を演じきった子役、リッキー・シュローダーを名優と呼ぶことを、私は躊躇しない。彼は、名画を名画たらしめた最大の功労者である。

 見終わって、だが、と思う。父と息子とは、これほど魂を寄せ合えるものなのか?
 私にも息子が1人いる。我々の魂はこれほど寄り添っていたか? いま、寄り添っているか?

 この映画に、大好きな台詞がある。

 

ビリー:

The day a man can’t take off his own pants, then he ain’t a man.
(自分で自分のズボンを脱げなくなったら、もう男じゃねえ)

 

 グデングデンに酔っぱらったビリーのズボンをT.J.が脱がせようとすると、ろれつの回らない口で言うのだ。
  男の矜持である。女の子にズボンを脱がせてもらうのは、そりゃあ、この上なく楽しい。だが、最後は、自分で自分の面倒を見られなければ男ではない。自分の足ですっくと立って世の中と対峙できるヤツだけが男だ。
 最後に自分の足でリングに立つビリーへの伏線ともなる台詞だが、同時に、T.J.がなぜビリーを敬愛しているかを明かす台詞でもある。
 アニーの船で、アニーにズボンを脱がされそうになったT.J.は、この父の言葉を復唱してきっぱりと断ったではないか。T.J.は父と同じ誇り高い男になりたいのである。

 なるほど、父親として息子に敬愛されるには、敬愛されるだけの理由がある。さて、私は?
 映画なんて、どうせ作り話だよなあ。私は自分でつぶやくしかない。

 世のお父さん、貴方はいかがですか?

 

 【メモ】
チャンプ(THE CHAMP)
1979年7月公開、123分

監督:フランコ・ゼフィレッリ Franco Zeffirelli 
出演:ジョン・ヴォイト Jon Voight  =ビリー
    フェイ・ダナウェイ Faye Dunaway =アニー
    リッキー・シュローダー Ricky Schroder  T.J.


【初出2007年5月17日】
▲【シネマらかす】にもどる               

*当サイトの記事及び画像の無断転載は禁止します。
*ご意見・ご感想・お問い合わせはメールでお願い致します。