#66 つばさ ― 映画人の根性

 夏目漱石は、「草枕」をこう書き出した。

 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

 漱石は1867年生まれ。「草枕」が「新小説」に登場したのは1906年9月だから、38、9歳での作である。わかりやすい言葉を連ねた短文を積み重ね、淡彩画のように透き通っていながら、奥の深い世界を作り出す。そして、これから始まる世界に読者を誘う。
 私は今、当時の漱石より遙かに長い時間を生きている。なのに、逆立ちしてもこんな文章は書けそうにない。それどころか、足元にさえ及びそうにない。悲しむべきなのか、諦めるべきなのか……。

 

 

(余談)
大変にわかりやすい文章である。なのに、わからない。
「どこへ越しても住みにくいと悟った時」
どうして詩が生まれて、画ができるのか? 最初に読んだときも分からなかった。いまもって分からない。トホホな文章理解力である。

 

 だが、いくら日本を代表する文豪とはいえ、すらすらとこの名文が出てきたのではない。と思いたい。でなければ、私が惨めすぎる……。
  恐らく漱石は、この書き出しに心血を注いだ。この文章ができたとき、「草枕」は九分通り漱石の頭の中で完成した。
 文章にとって、書き出しとはそれほど大事なものである。

 

 

(余談)
ずっと昔に、先輩に聞いた話だ。彼はある新聞社に入りたいと思い、策を練った。物書きになるのである。入社試験の要諦は作文にある。
「それでさ、何とかして俺の文章を試験官に読ませようと思った。読んでもらえないことには点数ももらえないからな。では、どうしたら読んでもらえるか?考えに考えた末、書き出しだと思った。最初の文章をどう書くか。いや、最初の一文字で試験官を惹きつけられるかどうか。それで、どんなテーマが出ようと、『血』という字で始めようと決めたんだ。『血』という字を見たら、誰だってギョッとするからね。そして実行した。与えられたテーマ? そんなもん忘れたけどね」
彼が志望の新聞社に入った。成功要因の1つは、このような『読ませる工夫』にあったことは疑いない。

 

 最初が大事なのは文章だけではない。
  スタートが下手な短距離ランナーは大成しない。
  妻を飼い慣らそうと思えば最初が肝心である。ここで手を抜くと、後々泣きを見ることになる。
  三つ子の魂は百まで残るという。子育ての成否も、最初の時期にかかる。
  仕事帰りのビールは、最初の一杯が一番美味い。
  あ、これは関係ないか。

 新しく創設された賞も、第1回の受賞作品で方向が決まる。ちなみに、1935年に創設された芥川賞の受賞作は、石川達三 氏の「蒼氓」であり、同じ年に生まれた直木賞は、「鶴八鶴次郎」「風流深川唄」「明治一代女」を書いた川口松太郎氏が獲得した。それが賞の性格を決めたかどうかは、皆様の判断に委ねたい。ま、最近の芥川賞は、商業主義が目立ち、中身はつまらなくなってきた感はあるが。

 映画にも様々な賞がある。モスクワ国際映画祭(「シネマらかす #4:裸の島 − 生きるって、生きていくって……?」を参照してください)、カンヌ国際映画祭など、世界各地で個性のある映画祭が催され、賞が出ている。その中でも、映画界の中心に君臨しているのは、なんといってもアカデミー賞である。
 アカデミー賞は1929年5月に産声を上げた。映画産業に携わる人々の団体、映画芸術科学アカデミーが毎年1回、投票で受賞作を選ぶ。年により、受賞作品により、毀誉褒貶はある(私も、「シネマらかす #43 : ライムライト − パブロフの犬」で、選考基準に疑義を呈している)が、いずれにしても、最も強い影響力を持ち、最も注目を集める賞であることは疑いない。

 「つばさ」は、栄えある第1回アカデミー賞作品賞受賞作である。

 1914年、第1次世界大戦が勃発した。欧州を主戦場にした初めての世界規模の戦争は、初めての近代戦だった。戦車や潜水艦、毒ガスが初めて戦場に登場し、大量殺戮が繰り返された。死亡した兵士は900万人以上に登り、それ以上の人が銃後でなくなった。
 3年たった1917年、戦火は一向に収まる兆しは見えなかった。世界の耳目は米国が参戦するかどうかに集まった。米国の参戦が均衡状態にあるパワーバランスを崩し、戦争終結を早めると期待されたのだ。
 これが「つばさ」の時代背景だ。

 米国の田舎町に、空に憧れる若者がいた。ジャックという。ジャックは都会からやってきたシルビアに夢中だ。いつの時代でも、田舎者は都会のセンスを漂わせる女性にはクラクラするらしい。


 

(余談)
そういえば、かく申す私めが小学生から中学生に書けて憧れた女の子も、都会から来ました。
加えて、我が妻も東京生まれの横浜育ち。
私、立派な田舎者であります。

 

 シルビアは町一番の資産家の息子、デイビッドと恋仲だった。なのに、ジャックは全く気にしない。というか、ジャックの目にはデイビッドなど入っていない。自分が好きな女の子が、ほかの男に恋してるなどという極めてシンプルな人間関係を理解する知性や感性は、ジャックにはかけらも備わっていない。だから、隣に住むメアリーがジャックに恋心を持っていることにもちっとも気が付かない。
 脳天気で夜郎自大な、典型的な田舎のお兄ちゃんだ。

 1917年4月、米国が参戦を決めた。ジャックとデイビッドの運命が絡み合いながら大きく変わる。2人は航空隊に志願し、同じ部隊に所属して欧州の最前線に出たのである。
 当初はシルビアを巡って角をつき合わせていた2人だが、まあ、ハリウッド映画のお約束というか、ある機会に殴り合いをしてすっかりうち解けあい、あろう事か親友にまでなってしまう。では、シルビア問題はどうなったか?
 どうにもならない。
 ジャックは入隊する前、シルビアがデイビッドのために用意していたロケットペンダントを自分へのものと思い込んで我が物とした。戦場では肌身離さず、お守りにしている。ロケットに入った写真の裏には、

 “To David with all my love    Sylvia”

 と書いてあるのだが、そんなところは見ようともしない。どこまで行っても脳天気な男である。

 一方のデイビッドはシルビアからの手紙でそれを知っている。嫉妬に駆られるが、ジャックの気持ちを思いやって何もいわない。2人の友情は、ずっと大人であるデイビッドの我慢があってはじめて継続しているのである。

 戦闘機乗りとなった2人は、やがてエースパイロットに成長する。順調に見えた運命が暗転するのは連合軍総攻撃の前日だ。
 2人は、総攻撃に備えてドイツ軍の観測気球を使用不能にせよとの命令を受けて飛び立つ。無論、ドイツ軍もバカではない。観測気球は4機の戦闘機が護っていた。この4機をデイビッドは1人で引き受け、気球攻撃をジャックに委ねる。デイビッドは2機までは撃墜した。だが、それが限度だった。ついに左肩に被弾して操縦できなくなり、愛機は水上に落ちて炎上した。

 デイビッドが撃墜された。死んだ。
  ジャックは、親友を奪った敵に復讐心を燃え上がらせる。翌朝、総攻撃に加わると、地上の敵を狙い撃ちにした。敵兵はすべてデイビッドの敵(かたき)なのだ。情け容赦などみじんも必要ない。

 だが、デイビッドは生きていた。傷を負いながらも間一髪で飛行機を脱出したデイビッドは敵陣からの脱出を試みる。翌朝、連合軍の総攻撃を迎え撃つべく出撃準備を終えていた敵機を奪い、味方陣営を目指した。
 間もなく味方陣営だ。このまま行けば、敵陣に入り込んで敵の飛行機を盗み出し、見事凱旋を飾るデイビッドは英雄になるはずだった。だが、出会ってしまったのだ、復讐心に燃えるジャックの飛行機に。

 ジャックの攻撃は熾烈だった。何とか逃げ延びようとするデイビッドを追いつめた。親友の仇討ちなのだ。逃がすものか! デイビッドにもそれは理解できた。だが……。
 エースパイロット、ジャックの腕は確かだった。ついにデイビット機は撃墜され、デイビッドはジャックの腕の中で息をひきとる。

 という話である。ジャックとデイビッドの友情物語という筋立てだ。

 いま見れば、どうという映画ではない。ご都合主義オンパレードのストーリー、深みのない人物描写、戦争という政治的残虐行為へのあっけらかんとしすぎた視点……。どれをとっても3流作品でしかない。

 だが、この作品ができてから現在までの80年という時間を重ねてみれば見方が一変する。
 よくもまあ、これだけの作品を作ったものだ。なによりも、その基本姿勢が第1回アカデミー賞作品賞に相応しい。娯楽に徹していることである。

 観客は映画に何を求めるか? 高邁なるお説教ではない。難解な哲学でもない。人生の深淵をのぞき込むことでもない。もちろん、そんなテーマを扱った映画がないわけではない。だが、多くの観客を魅了することはない。
 暗闇に席を取った観客が待ち望むのは、一時の娯楽である。忘我の時である。日常生活から自らを解き放って夢の世界に遊ぶことである。
 詰まるところ映画とは、私のような大衆の芸術なのだ。

 という目で見ると、「つばさ」は、娯楽映画の原型を見事に描き出している。

 主人公のジャックは、暮らしは、まあ中流。親思いのいい子で腕っ節が強く、国家の危機には自分を投げ出す勇気も持ち合わせる。思いこんだら命がけの一途さはあるが、反面、常に自分が中心で、人の心の動きに配慮する繊細さは微塵もない。だから、熱い目を向ける女性の思いにはトンと気がつかない。
 ジャックの親友デイビッドは、ジャックとは対称的な人物だ。金持ちのお坊ちゃんで、優れた知性を持つ。人の心の動きに敏感で思いやりが深く、時には友を傷つけないために自分を犠牲にする。腕っ節はそこそこだが、国のためには身を捨てる勇気は人並み以上にある。

 どう見ても、デイビッドの方が数段上の人物と思えるのだが、生き残るのはジャックで、デイビッドは殺されてしまう。してみると、アメリカ人の理想は、知性も教養もない、単純明快なジャックの方らしい。こうした理想のヒーローが登場するのは映画を成功させる第1歩である。

 この2人が、シルビアという女性をはさんで三角関係に陥る。やはり、男と女が絡み合わなければ、ひと味落ちる。中でも三角関係は、男女関係の難しさの原点である。嫌でも観客はスクリーンに惹きつけられる。

 恋敵であるジャックとデイビッドは当然反目しあうのだが、飛行部隊の訓練で憎しみを込めて殴り合ううちに心が通い合い、反目していたのはコロリと忘れて親友となる。
 そう、男はいつまでもイジイジしてはいけない。イジイジするぐらいなら殴り合っちゃえ。わだかまりなんて溶けちゃうぜ! この人間関係の単純さも、あとのハリウッド映画に何度も採用されることになる。

 ジャックとデイビッドは瞬く間に部隊のエースパイロットに成長する。いつもいの一番に空に駆け上がり、バッタバッタと敵機を打ち落とす。そう、ヒーローはNo.1でなければならない。3番目に腕のいいパイロット、いつもお荷物になるパイロットでは主役をはれないのも、ハリウッドのお約束だ。

 まだまだある。ジャックを慕って戦場までやって来たメアリーの脚線美が拝めたり、何と、目をこらさないとすぐに消え去るが、メアリーの乳首までがばっちり登場したりと、観客サービスには余念がない。親友であり、友に腕のいいパイロット、英雄であるが故に一方が一方を殺してしまう悲劇も、観客を魅了するための工夫だろう。

 それよりも何よりも、すっかり感心してしまったのは特撮だ。
 映画の性格上、空中シーンが多い。最高速度200kmの複葉機が、優雅に飛行する姿をカメラはしっかり追い掛ける。その程度なら、もう1機飛行機を用意し、カメラを積み込んで撮影すれば撮ることができる。操縦桿を握るジャックやデイビッドが大写しになり、後ろから来た敵機から攻撃されるシーンも、スタジオに作った操縦席のセットの後ろにスクリーンを設け、先に空中で撮影した敵機の攻撃シーンを映せば撮影可能だ。 その程度は、私だって思いつく。

 だが、いったい、撮り方をしたんだろう? と考え込んだ箇所がいくつかあった。
 まず、撃墜された飛行機が、火を噴きながらきりもみ状態で落下するシーンだ。火と煙は、発煙筒か何かを飛行機に取り付けておけば何とかなる。だが、きりもみ状態で落ちる飛行機は、危険を承知で引き受けたパイロットが操縦しているのだろうが、彼らは安全に着地できたのだろうか? 複葉機とは、それほど簡単にきりもみ状態から平常飛行に戻れるのだろうか? リスクを見込みながら撮影したとすれば、そこまでして観客を喜ばそうという根性には、脱帽するしかない。

 2つめは、被弾した飛行機が不時着し、前方に1回転して大破するシーンだ。ジャックに撃墜されたデイビッドの飛行機が、最後は家屋に腹から激突するシーンも同じである。おいおい、少なくとも100km近い速度で動いている物体を1回転させたり固定物に激突させたりって、中に乗っているパイロットはどうなったの? とハラハラする。

 最も驚いたのが、飛行機同士の激突シーンである。空中戦を展開していた連合軍機とドイツ軍機が空中で激突、どちらも大破してしまうのだ。

 もちろん、コンピュータ・グラフィックスなどを駆使して、現実にはあり得ないシーンまで作り上げてしまう最近の特殊撮影に比べれば、拙い特撮ではある。だが、そう見えるのは、我々が80年後の世界にいるからだ。たぶんこれは、80年前の最新の技術と、この映画の製作に携わったスタッフの知恵の結集なのである。最新の特撮と、精神では全く同じものなのだ。
 映画という娯楽を、いかに大衆にアピールするか? 舞台演劇と同じことをスクリーンで見せるのでは芸がない。エジソン以来の技術の結集である映画は、部隊では絶対に見られないものを見せたい。いまの技術で、何ができるか? もっとできないか? 恐らく、そんな必死な思いが込められたシーンなのである。

 おかげで観客は、普通であれば絶対に見ることができない数々のシーンを目にし、驕傲しながら映画を楽しんだに違いない。こうした努力で、映画は長い間大衆娯楽の頂点に立ち続けたのだ。
 そして、アカデミー賞を立ち上げた人々は、この作品に映画の未来を託した。映画を大衆娯楽の頂点に押し上げようという夢である。この作品には、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の、「スター・ウォーズ」の原点がある、と私は思う。

 

 

(研究結果)
上に書いた空中激突シーン、原稿を書いたあと、秘密を知りたくて何度も見直しました。なるほど、と思ったのは、直前までは恐怖に顔をゆがめるパイロットを撮りながら、激突するシーンは下から撮られていることでした。たぶん、スタジオに2機の飛行機を吊し、カメラを下に置いて、勢いをつけて衝突させたのでしょう。
私の推測、当たっているかな?

 

 私の拙文をお読みいただいている方々は、こよなく映画を愛していらっしゃるのだと信じている。愛していらっしゃれば、幼少期の映画を確認し、そこに込められた映画人の情熱を読み取るため、「つばさ」は是非ご覧いただきたいと思う。

 以下、ついでながら。
 この映画はサイレントである。であれば、サイレントのまま鑑賞しなければ、この映画の味は分からない。
 私はNHKのBS2で録画した。録画した「つばさ」には、ご丁寧も、ご親切にも、NHK様は、コストと手間をかけて、延々とナレーションを入れていらっしゃった。画面では、最後に
 「映画説明 澤登翠」

 と出た。
 艶消しである。

 「まったく余分なことを」

 と毒づきたくなったのは私だけではないはずである。

 

 【メモ】
つばさ (WINGS)
 1928年3月公開、140 分

監督:ウィリアム・A・ウェルマン William A. Wellman
出演:クララ・ボウ Clara Bow=メアリー
   チャールズ・ロジャース Charles  Rogers=ジャック
   リチャード・アーレン Richard Arlen=デイビッド
   ジョビーナ・ラルストンJobyna Ralston=シルビア



【初出2006年7月27日】

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