#56 : 死刑執行人もまた死す − 図式化通りのプロパガンダ

 ナチスという歴史的犯罪は、映画人の感性をいたく刺激するらしい。ナチスが政権の座に着いた直後から、ナチスの罪を糾弾する映画が数多く作られてきた。歴史的犯罪の罪状が確定したあとも作られ続け、この日本日記に登場したものだけで、すでに3本ある。

 

政治と権力の悪に正面から挑んだ「チャップリンの独裁者 − 失敗作?」
圧政の元での家族愛、人間の強さを描ききった「ライフ・イズ・ビューティフル − 軽薄の勧め」

ナチスを構成した人間たちに踏み込んだ「 コンスピラシー −優秀な官僚たちの犯罪」

 

 である。
 この日記で取り上げるかどうか分からないが、我が家にはこのほかにも、「生きるべきか死ぬべきか」「ニュールンベルグ裁判」「ホロコースト/救出された子供たち」「ニュルンベルグ軍事裁判」「ヒットラー」「暗殺の森」「老兵は死なず」などがそろっている。
 そして今年は、「ヒトラー〜最期の12日間〜」という新作が封切られた。こいつは、見たいと思い続けているが、遺憾ながらいまだに見る機会がない。残念である。
 ナチス映画は映画人だけでなく、私の感性もいたく刺激する。
 
 「死刑執行人もまた死す」もその1本だ。1943年にできた。反ナチス映画の傑作と評されることが多い。
 今回は、こいつを切り刻む。これまでに取り上げた3本と違い、最初に見たときから何となく違和感を抱き続けている映画である。
 
 舞台は、ナチス・ドイツが占領したチェコの首都プラハ。この地を仕切るのはチェコ・スロバキア総督となったSD(国家保安本部)長官のラインハルト・ハイドリッヒである。彼は就任早々、スコダ工場の弾圧強化を指示する。ナチス・ドイツに占領されたチェコ・スロバキアで、軍需車両を生産する軍需工場となっていたスコダでは、労働者の抵抗が続いていた。ストライキである。その罪によって、すでに50人が処刑されていた。
 ハイドリッヒはいう。
 
 「少なくとも500人は処刑すべきだ。今後、軍需工場の管理はゲシュタポ(国家秘密警察)が行う。スコダは私が担当する」

 

 

(余談)
スコダは懐かしい名前です。出張でチェコに行ったとき、訪問した会社だからです。
「あれ、そうだっけ?」
とおっしゃる方は、「旅らかす―中欧編IX : シュコダ社」をご覧ください。我が日記では「シュコダ社」となっておりますが、同一の会社です。シュコダ社が世に送り出した素晴らしい自動車の写真もご覧いただくことができます。

 

 ハイドリッヒの非情な治世はチェコの人々の激しい怒りを誘った。彼は憎しみを込めて「Hangman(死刑執行人)」と呼ばれた。
 そのハイドリッヒが暗殺される。現実には、英国から潜入した工作員の仕業だったというが、この映画はチェコの地下抵抗組織の一員、スボボダ医師を犯人とし、ナチスの暴虐にしぶとく抵抗する民衆の姿を歌い上げた。
 
 ハイドリッヒに3発の銃弾を撃ち込んだスボボダの逃走計画に齟齬が生じる。待たせていた地下組織仲間が運転するタクシーが、些細なことでゲシュタポに引っ張られていたのだ。待ち合わせ場所まできてタクシーがいないのに気づいてあわてるスボボダを救ったのは、たまたま居合わせたマーシャ・ノボトニーだった。追い掛けてきたゲシュタポに、スボボダが逃げたのとは逆の方向を教えたのである。愛国心で、ナチス憎しで思わず出た嘘だったが、これがノボトニーの家族をハイドリッヒ暗殺事件に巻き込んでいく。
 
 チェコ・スロバキアにおける最高権力者を暗殺されたナチス・ドイツは、国の威信を賭けて犯人の捜索に乗り出した。午後7時以降の外出を禁止し、犯人捜索に非協力的な市民への報復命令を発したのである。
 スボボダは隠れ場所に窮した。思いあまった彼は、街角で自分を救ってくれたマーシャを頼り、ノボトニー家に逃げ込んだ。マーシャの父ステパンは、かつては革命家で、共和党の創始者であった。いまは政治の一線から身を引き、大学で歴史学を教える。だが、若き日の情熱は、いまも彼の中で赤々と燃えている。
 ハイドリッヒ暗殺犯を見たというマーシャを、そんなことを口にしてはならないと戒め、突然現れたスボボダには、事情を察しながらも一夜の宿を貸す。死刑執行人に死刑を執行したスボボダは、民族の英雄である。敵の手に引き渡すなど、思いもよらないことなのだ。
 
 ゲシュタポの非道はさらにエスカレートする。プラハ市民からの通報がないことに焦り、市民400人を人質に取ったのだ。犯人逮捕まで釈放しないばかりか、毎日40人を処刑し始める。暴虐ここに極まれり。そして、その人質の1人にステパン・ノボトニー教授がいた。
 マーシャが窮する番だった。確かにスボボダは民族の英雄かも知れない。だけど、最愛の父と引き替えにできるか? スボボダを救うために父の命を危機にさらしていいのか?
 マーシャは、父を救うため、ゲシュタポへの通報を決意する。馬車に乗ってゲシュタポ本部に向かおうとするマーシャを阻止したのはプラハの民衆だった。マーシャの乗った馬車を取り囲み、口々にマーシャを罵るのである。
 ナチス・ドイツは敵だ。敵に通じるものは民衆の、祖国の裏切り者だ。民衆を、祖国を裏切ってはならない。マーシャはプラハの民衆に教えられた。
 だが、だったら父を諦めるのか? 見放すのか? それはできない。だったら……。
 やがて、ステパン・ノボトニーとスボボダをともに助ける一大プロジェクトが動き出す。プラハの民衆全員で、ゲシュタポをペテンにかけようというのである。ペテンにかけて、祖国を裏切ってナチス・ドイツに協力しているビール醸造業者チャカをハイドリッヒ暗殺犯に仕立て上げる。その最も重要な役を割り振られたのがマーシャだった。父の命とスボボダの運命を担ったマーシャの奮闘が始まる。マーシャは、父を、スボボダを、救い出すことができるのか?
 
 と粗筋を書き連ねてみた。実によくできたストーリーである。粗筋では省略した「ペテン」が、すこぶる面白い。
 
 ハイドリッヒ暗殺犯を追うのは、刑事コロンボを彷彿とさせる腕利き、グルーバー警部である。グルーバーは最初から、スボボダを臭いとにらみ、ノボトニー一家がスボボダをかばっていると疑っている。
 スボボダは、身元が分かるのを恐れてバニヤックという偽名でノボトニー家に1泊した。ところが、ゲシュタポの調査ではプラハ市内にバニヤックという男は存在しない。存在しない男の実在をゲシュタポに信じさせるにはどうするか?
 ゲシュタポから疑惑の目を向けられたスボボダは、どんなアリバイを用意していたのか?
 ゲシュタポの目を、スボボダからチャカに移させるにはどうすればいいのか?
 
 素晴らしい計画があり、計画がばれそうな瞬間がある。緩急を心得た展開は、良質なサスペンスを見るような興奮を誘う。見ているこっちは、ワクワクし、ハラハラし、ドキドキし、思わず時間を忘れて引き込まれる。
 
 なのに、どうして私は違和感を持ち続けるのか?
 
 この映画には決定的に欠けているものがある。人間である。あなたや私のような生きた人間が登場しない。登場するのは、思考回路、感情の回路が1本しかないような、できの悪いロボットのような人物ばかりなのである。いい人はいい人、悪い人は悪い人、という単純2元論の世界はわかりやすくはある。だが、決定的に深みに欠ける。
 無論、映画の手法として単純2元論を否定するものではない。その手法が有効な映画もある。だが、ナチスの犯罪をえぐりだそうという映画では、薄っぺらさが目につく結果となる。
 
 例えば、偉大な元革命家ステパン・ノボトニー教授。この人は畏れというものを全く知らない。突然ゲシュタポが自宅にやってきて、ハイドリッヒ暗殺犯が逮捕されるまで人質にするといっても、悠然とお縄につく。不安そうな家族を諭し、教授の下へ勉強に来ていた元学生たちには、学び続けよとの言葉を与え、胸をはってゲシュタポと同行する。
 鉄の意志を持った、恐れを知らぬ偉人。私の知り合いには、1人もいないタイプである。
 
 人質になった教授に、処刑の順番が回ってきた。実は、マーシャの口を開かせようというゲシュタポの悪巧みで、教授の順番はまだなのだが、それは本人もマーシャも知るわけがない。
 最後の面会を許されて駆けつけたマーシャに、教授は淡々と遺言を伝える。
 
   Now, mighty invaders will have been thrown out of our land for quite some time. I hope you'll be living in a free land where the people are governed by themselves and for themselves. Those days will be great to live. And the land where all the men and women and children will have enough good food to eat and time to read and to think and to talk things over with one another for the long good. When such great days do come, don't forget that freedom is not something one possesses like a hat or a piece of candy. The real thing is to fight for freedom. And you might remember me not because I've been your father, but because I also died in this great fight.
 (いつかかならず、圧倒的武力を誇る侵略者も、この国から追い払われる。その時は、人民が人民によって、人民のために統治される自由の国でお前たちに生きて欲しい。そのように生きることができる日々は偉大な日々だ。男も女も子供たちも、食べ物が充分に食べられる国。本を読む時間があり、考える時間があり、先々をどのようによくしていくかをお互いに語り合える国。そのような素晴らしい日々が訪れても、忘れないで欲しい。自由とは、帽子や一粒のキャンディのように所有するものではない。自由とは戦い取るものなのだ。お前たちは私を、お前たちの父だった男として思い出すのではない。この偉大な戦いで命を落とした男として思い出すのだ)
 
 いやあ、身が引き締まるような高潔な遺言である。恐らく、この遺言は、フリッツ・ラング監督がこの映画に託したメッセージでもある。だけど、聞いているうちに、何となく腰が引けてしまう。
 そりゃあ、ステパンさん、立派な学問をされた。でも、私のような、学問もそこそこ、仕事もそこそこ、遊びが好きで、だらしなくて、お腹がふくれるのを気にしながら、でもやっぱり美味しいものが食べたくて、肝臓が疲れているなあと思いながらお酒が飲みたくて、そのくせ、いろんなものに怯えて、時々堪忍袋の緒が切れて、とにかく、煩悩の海の中で泳ぎ回っているような衆生におっしゃっても、戸惑ってしまうのですよ。
 あなた、立派すぎるんだもん。あなたの真似をしようったって、真似できるものではありませんのですよ。ははーっ、てなもんで、ご高説を聞くだけで首をうなだれてしまうのですよ。
 これねえ、私と同じように人並みの恐怖心も併せ持つ、どちらかといえばだらしない方がおっしゃるのなら、まだ私にも、ひょっとしたら実行可能かな、と思わないこともないでしょうが、あなたがおっしゃると、そうはいかないのでございます。
 
 という目で眺め始めると、この映画、徹底的に図式化された世界なのだ。
 スボボダの逃走を助けるはずだったタクシー運転手バーニャはゲシュタポに連行されると、隙を見て窓ガラスをぶち破って飛び降り、見事自殺に成功する。拷問で口を割るのを恐れた、勇気ある行動である。でもねえ……。
 
 ゲシュタポに駆け込もうとするマーシャを止める民衆も同じ図式の中にある。路上で、たまたま居合わせただけなのに、おまけに近くにゲシュタポがいるのに、口々にナチスの非を唱え、マーシャを罵る。そんなことってありか? 目の前に杖をついたお年寄りがいるっていうのに、2人分の席を占領してふんぞり返っている兄ちゃんがいても、見て見ぬふりをするのが民衆ってもんじゃないのかい? ましてや、相手はゲシュタポだぜ。殺されることだってありだろ?
 
 と、1つ1つの出来事が、ストンと胸に落ちないのだ。

 

 

(余談)
「ナチ・ドイツと言語」(宮田光雄著、岩波新書)によると、戦争中のドイツでは、様々なジョークが密かに民衆の中に流布されていた。いくつか秀逸なものを書き出してみる。

1人の紳士がレストランで次々にさまざまの料理や飲み物、タバコを注文したが、そのたびに、もうありませんと返答された。彼は怒って叫んだ。「それもこれもあの1人の男のせいだ!」。そのとき傍らのテーブルにいた2人の人物がゲシュタポの身分を示した上で、この紳士を逮捕した。訊問調書を作られた際に、彼は、自分の発言をすべて認めた。「あの男のせいとは誰のことか」と聞かれたとき、彼は「むろん、チャーチルのことです」といった。めんくらっているゲシュタポに向かって、こう付け加えた。「いったい、あなた方は誰のことだと考えていたのですか」
同じ本から、もう1ついってみよう。
ヒトラーは国民が自分のことをどう考えているか知りたいと思い、かつらをつけ、ひげを剃り落として町に出た。最初に出会った男に尋ねた。「総統をどう思っていますか」。その男はささやいた。「こんな町なかでいうことはできません」。男はヒトラーを横町に連れ込み、一緒にホテルに入り、一緒に部屋にあがると、ベッドの下をのぞき、ドアを閉め、戸棚の中を調べ、電話機をクッションで覆った。それからヒトラーのそばに寄ってきて、耳もとでささやいた。「私は総統のシンパなんですよ」

これこそ、民衆による素晴らしい抵抗だと思うのだが……。

 

 特筆すべきは、ナチス・ドイツの描き方である。とにかく、人情の一欠片もない悪の権化の集合体なのだ。
 スボボダの逃走をマーシャが助けたとき、マーシャと一緒にいた青果商のドボルジャークおばさんは、拷問で殺してしまう。400人の人質を取る。その人質を次々と殺していく。
 極めつけは、ハイドリッヒである。冒頭、部下がずらりと並び、ナチス式敬礼で迎えるところに入ってきたハイドリッヒは、ある高官の前で手に持っていた杖(かなあ? 杖にしては短い棒なのだが、これが何物か知らないのでとりあえず杖としておく)をわざと落とす。その高官は戸惑うが、敬礼をやめるわけにはいかない。するとハイドリッヒは、不気味な笑顔をその高官に向けるのだ。おや、私の杖を拾ってくれないのかね、といわんばかりに。やがて高官は視線に耐えきれなくなり、しゃがんで杖を拾うとハイドリッヒに渡す。
 ハイドリッヒさん、権威と権力を振り回す絵に描いたようなゲス野郎である。
 
 これでもか、これでもかと残虐に描かれるナチス高官は、だが、ちっとも怖くないのだ。思考回路を悪にセットされたロボットにしか見えないのである。生身の人間が、いろいろなことを考えながら、時には悩みながら実行する悪ではないのである。彼らは、電池が切れたらそのままの形で動かなくなってしまうブリキの人形にしか見えないのだ。
 私は、「コンスピラシー − 優秀な官僚たちの犯罪」で描かれたハイドリッヒたち、頭脳明晰で、仕事として悪をこなしていく男たちの方が、100倍も1000倍も恐い
 
 一時は全欧州を席巻する勢いだったナチス・ドイツは1941年6月に始めたモスクワ侵攻が失敗、さらにアメリカの参戦の参戦もあって、敗色が漂い始める。この映画は1943年、母方がユダヤ系であるためナチスの迫害を逃れてアメリカに亡命したフリッツ・ラング監督が、社会主義者である劇作家ベルトルト・ブレヒトを招いて作った。米国民をナチス・ドイツとの戦争に駆り出すと同時に、ブレヒトが信奉する思想に従って、資本家に対する民衆 = 労働者の優越性を色濃く描いたプロパガンダ映画の色彩が強い。
 また、民衆はナチス・ドイツに抵抗する善玉、ビール醸造業者である資本家、チャカは、ナチス・ドイツの手先となって祖国を裏切った悪玉、として描く図式は、社会主義者ブレヒトが書いたといわれる。社会主義的世の中の割り切り方というしかない。
 
 だが、このような映画で、米国民の反ナチ意識が高まったのかどうか。
 
 敵を知り己を知らば百戦危うからず
 
 という。この映画で戦場へ赴けば、どうも危うくて仕方がない、と感じるのは私だけだろうか。
 
 ちなみに、ナチス・ドイツから解放されたチェコ・スロバキアは、ブレヒトが信奉する思想を掲げた国家、ソ連の影響下に入る。
 ナチスがチェコを支配したのは1939年から45年まで。ソ連がこの国にのしかかったのは、1948年から89年までである。この間、1968年には、ドプチェク共産党第1書記、東京オリンピックの花といわれた女子体操選手チャスラフスカらが中心になって推し進めた「プラハの春」と呼ばれる改革運動が押しつぶされた。チェコの民衆の前に姿を現して威嚇したのは、労働者の祖国であったはずのソ連の、ワルシャワ条約機構軍の戦車だった。
 
 この映画には、その戦車が乗り入れたヴァーツラフ広場が出てくる。この映画を見ながら、歴史の皮肉すら感じた。この映画は、1つの思想にとらわれすぎると、見なくてはならないものも見えなくなってしまう1つの例である。

 

 

(蛇足)
ここまで書いて、あれっ、と思ってしまいました。この映画、冒頭はプラハ城の遠景で始まるし、ヴァーツラフ広場も登場するのです。骸骨を組み込んだからくり時計はヴァーツラフ広場の名物なのです。私もこの目で見てきました。
でも、1943年、ここはナチス・ドイツの占領下にあったはず。どうやって撮影したのだろう? 記録映像でも使ったのかな……?
ご存じの方がいらっしゃったら教えてください。

 

 【メモ】
死刑執行人もまた死す (HANGMEN ALSO DIE)
 1987年12月公開、上映時間120分
監督:フリッツ・ラング Fritz Lang
原案:ベルトルト・ブレヒト Bertolt Brecht
   フリッツ・ラング Fritz Lang
   ジョン・ウェクスリー John Wexley
出演:ブライアン・ドンレヴィ Brian Donlevy = スボボダ
   ウォルター・ブレナン Walter Brennan = ノボトニー教授
   アンナ・リー Anna Lee = マーシャ・ノボトニー
   アレクサンダー・グラナッハ Alexander Granach = グルーバー警部


【初出2005年11月4日】

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