#42 : 街の灯 − You?

 我が家に2枚組のCDがある。Thomas Beckmannが演奏する
 
 >>Oh! That Cello<<
 Music by
 CHARLIE CHAPLIN

 
 である。別に、チェロという楽器が特別好きなわけではない。チェロ好きの方には申し訳ないが、ピアノやバイオリンのように幅広い表現ができる楽器ではない、どちらかといえば地味な楽器だと思う。チェロを操るジャズ奏者鈴木勲は好きだし、サン・サーンスの組曲「動物の謝肉祭」では、2台のピアノを背景にチェロが優雅な旋律を聴かせる「白鳥」が一番好きだ。だが、それでも、チェロはオーケストラの中で1つのパートを受け持つことが主な役割の楽器だと思う。

 

 

(余談)
「白鳥」はわずか3分20秒の短い曲だ。この曲想に魅せられて、もっと長い時間浸っていたくなった私は、何故そう考えたのか、いまとなっては不明だが、もっと長いバージョンの「白鳥」があると頭から思いこんだ。CD屋に行った。棚を探した。
「これだ!」
自宅に戻り、すぐにかけた。全く違う曲が流れ出した。
「あれっ!」
私が買ってきた曲は、チャイコフスキーの「白鳥の湖」だった。

(追加)
最近、遠藤真理ちゃんのチェロを聴く機会がありました。ブラボー! です。彼女の演奏にはドライブ感があります。観客を音楽に乗せてくれます。それに、まだ20代半ばの若さに加えて、すこぶる付きの美形! 近くCDも発売されるそうです。気が向いた方は是非お買い上げを。

 

 では、なぜチェロ独奏曲が集まったこのCDを買ったのか? チャップリンの音楽が聴きたかったのだ。ある映画のテーマミュージックが聴きたかった。その曲が、たまたまこのCDに入っていた。楽器は、ピアノであろうとバイオリンであろうとフルートであろうと、どうでも良かった。チェロだったのはたまたまに過ぎない。
 
 「パブロフの犬」は、恐らく大多数の方がご存じであろう。ロシアの学者パブロフが、自分の飼い犬にまずメトロノームの音を聞かせた。その上で餌を与えた。これを繰り返すと、犬はメトロノームの音を聞くだけで唾液を垂れ流した。条件反射である。
 私にとってその音楽は、パブロフ博士の飼い犬におけるメトロノームだった。出だしを聴くだけでもういけない。映画のシーンが脳裏に浮かぶ。鼻の奥がツンとする。目はウルウルだ。おい、ティッシュ、ティッシュ、てなもんである。
 この音楽は私を完全に犬にする。犬になるとは、極めて心地良い体験である。
 
 という出だしの文章を書こうと思って、「街の灯」を見た。私が大好きなチャップリン・ミュージックは、私のメトロノームは、この映画のものだと思い続けていた。ところが、いつまでたってもメトロノームの音が聞こえない。

 あれ?

 最後まで見た。とうとう、私は犬にならなかった。冒頭のCDを取り出した。

 あれっ?

 ない。「街の灯(CITY LIGHTS)」がない。このCDで何度も聴いた曲ではないか。そんなバカな! 題名を確認しながら聴いた。あの曲は流れてきた。24曲入った2枚組のCDで、2回も流れてきた。やはり名曲なのである。ところが、題名が違っていた! いや、音楽の題名だけでなく、映画そのものが違っていた!!
 
 ということは何か? 私は違った映画のテーマミュージックで、違った映画のシーンを思い浮かべて、10数年もの間涙を流していたのか?!
 パブロフの犬は、メトロノームの音を聴いて正確に餌を思い浮かべ、唾液を垂れ流した。なのに、どこから見ても人間様にしか見えない私は、メトロノームならぬ携帯電話の音で、血の滴るステーキを思い起こして涎を流していたのか?
 人の記憶とは当てにならない。人の判断とは当てにならない。いや、条件反射すら当てにならない。それとも、単に加齢のせいか?
 ちょいと凹んだ。
 
 という条件下ではあるが、「街の灯」が名画であることには何の変わりもない。私のメトロノーム映画は次回に譲るとして、今回はこの映画を取り上げる。
 
 かぐわしいばかりの愛の物語だ。制作は1931年。アメリカは不況のまっただ中にあった。2年前に第1次世界大戦後のバブル景気が崩壊、ウォール街で株価の大暴落が起きた。経済活動が落ち込んだ。巷には失業者が溢れた。我らがヒーロー、チャップリンもその1人である。
 職はない。家もない。その日その日の暮らしの糧を求めて街をうろつくチャップリンはある日、車で渋滞する道を横切るため、駐車中の車の中を通り抜ける。出ると、そこに花売りの乙女がいた。車のドアが閉まる音とともに現れたチャップリンを、乙女は、車を所有できるほど裕福な紳士と思いこんでしまう。乙女は目が見えないのだ。

 一方チャップリンは、天に昇った。理想の美女がいた。花を勧める乙女の手に触れたはずみで、彼女は花を落としてしまう。すると彼女はしゃがみ込んで手探りで花を探した。チャップリンが拾い上げた花を握らせてやると、彼女は彼の襟のフラワーホールに小さな花を一輪さしてくれた。チャップリンはズボンのポケットを探り、たった一枚あったコインを乙女の手に握らせる。
 こうして男女が知り合った。だが、誤解で始まった男女関係の取り扱いがなかなか難しいのは、古今東西どこでも同じである。
 
 乙女は、古びたアパートに祖母と2人で住む。乙女の花売りだけが暮らしの支えだ。チャップリンは乙女恋しさに彼女のアパートに通う。一目でも見たい!
 ある日、乙女が病気で寝込んでいた。彼はそれを見て一念発起、街の清掃の仕事につく。稼いだ金で食品などを買い、乙女の家に通い始める。盲目の自分に尽くしてくれる金持ちの男性。いつしか乙女も、彼の来訪を心待ちにする。

 そんな出会いの一日だった。チャップリンは買ってきた新聞を乙女に読んで聴かせていた。希望が、そこにあった。
 
 "VIENNA DOCTOR HAS CURE FOR BLINDNESS"
 (ウイーンの医師、盲目の治療に成功)
 
 朗報だった。聴いた乙女は思わず声を上げる。
 
 "Wonderful! Then I'll be able to see you."
 (素敵だわ。あなたを見られるようになるなんて!)
 
 朗報ではあった。だが、悲報でもあった。チャップリンは、乙女が思い描いているような大金持ちではない。しがない清掃人なのだ。最新医学の成果は貧乏人には無縁である。
 最初は乙女とともに喜んでいたチャップリンだが、やがて真顔になり、悲しそうな顔をして席を立つ。
 そればかりか、偶然、乙女の一家が家賃を払えず、督促状を受け取っていることまで知ってしまった。チャップリンの問いかけに泣き出した乙女には、
 
 "Now, don't worry, I'll pay it the first thing in the morning."
 (心配しなくていい。私が朝一番に払っておくから)
 
 と声をかけて励ましてはみた。だが、あてはない。チャップリンは悄然と去る。
 
 愛しい人の窮状だ。何とかしようと思わない男はいない。そしてチャップリンも男である。彼は知り合いに誘われ、賭けボクシングに出場する。その男と八百長試合を演じ、賞金を山分けする計画だ。ところがこの男、試合前にいなくなってしまった。おかげで、見も知らぬ屈強の男と闘うハメに陥る。盲目の乙女を思い浮かべながら必死に闘うのだが、あえなくノックアウト。
 チャップリン、色男かどうか知らないが、金も力もない。さあ、どうする?
 
 チャップリンには不思議な大金持ちの知り合いがいた。泥酔して自殺するところを助けて命の恩人になったが、この男、泥酔時と覚醒時の2つの人生を持つ。彼の泥酔時に知り合ったチャップリンは、覚醒時の彼には見知らぬ他人なのだ。泥酔時は自宅に連れ込み、酒場に同行し、どんちゃん騒ぎをする。翌朝目覚めると見知らぬ他人としてたたき出す。
 そんなことを何度か繰り返していた。欧州での仕事を終えて帰国したこの男と偶然であったのは、ボクシングにも負けて途方に暮れていたときだ。うまいことに、男は泥酔していた。乙女の話をすると、気前よく1000ドルくれる。いまの1000ドルではない。1931年の1000ドルである。そしてチャップリンはこの金をすべて乙女に貢ぐのだが、自分は盗みの疑いを掛けられ、逮捕・収監される。そう、あの男の酔いが覚めたのだ! 覚醒した彼には、チャップリンに金をやった記憶がない。
 
 刑務所を出て街に戻ったチャップリンのズボンは裾が裂け、上着もボロボロだった。その姿で街をさまよい歩いていたチャップリンは、花屋で働く乙女を見た。乙女は花屋を開いていたのだ。そして、乙女は目が見えるようになっていた。花屋のウインドウ越しにうっとりと見つめるチャップリンだが、乙女の目に映るチャップリンは薄汚い浮浪者なのだった……。
 
 
 チャップリン最後のサイレント映画である。登場人物が一言もしゃべらなくても、動きと表情と時折出る字幕でストーリーがすべて分かる。いや、音声情報がない分だけ、観客は少ない情報から物語の流れ、登場人物の心理を察しなければならない。それが観客の参加を引き出して、強い説得力、浸透力を持つ。チャップリンは押し寄せるトーキー化の並みに逆らってこの作品をサイレントで作ったらしい。なるほど、サイレントにこだわったチャップリンの思いがよく分かる。

 

 

(余談)
おかげで今回は、ヒアリングの苦労から解放されて楽でした。ま、どうでもいいことですが。

 

 その1つが、貧困を放置する社会への怒りだ。

 映画は記念碑の除幕式のシーンから始まる。ファンファーレが鳴り響き、
 
 "To the people of this city, we donate this monument. <Peace and Prosperity >''' "
 (この町の皆様に、この記念碑を寄贈いたします。「平和と繁栄」の像です)
 
 幕が落ちると、中央に女性が座り、横で男性2人が賛美する象が現れる。そして、チャップリンが女性の膝の上で寝ている!
 一方に、決まった宿を持たず、野宿同然の暮らしをする市民がいる。チャップリンが右代表だ。だが、大恐慌の時代なのに、他方には私財で記念碑を寄贈、いや寄贈といいながらその実は自らの富を見せつけるだけのために惜しみなく金をつぎ込む金持ちがいる。それって……。
 
 "Peace and Prosperity"
 
 というのは、チャップリンの最大の皮肉である。
 
 それだけではない。怒りの矢は、チャップリン自身にも向かう。
 ボクシングの賭け試合に負けて途方に暮れたチャップリンが、街をさまようシーンだ。字幕が出る。
 
 "Still hoping to get money for the girl, he wandered the city."
 (それでも乙女のために金を作る希望は捨てず、彼は街をさまよった)
 
 チャップリンは映画館の前を通りかかる。ちょうど映画が終わったらしく、観客がぞろぞろと外に出てきた。着飾った紳士、淑女ばかりだ。その中から、酒に酔った例の大金持ちが現れる。
 そうなのだ。大恐慌の時代、映画を楽しめるのは一部の金持ちだけなのである。時代の渦中で日々の暮らしに追われている人たちには無縁なのだ。映画は、一部の恵まれた人々に奉仕する娯楽に過ぎないのである。
 短いシーンだ。しかし、自ら映画監督として、この時期までに数多くの作品を送り出してきたチャップリンは、どんな思いで撮ったのだろう?
 金持ちへの捧げものにしかならないつまらない映画を作り続ける凡百のフィルムメーカーへの怒りか?
 しかし、チャップリン自身の映画だって、金を払わなければ見られない。観客はやはりこのような金持ちばかりなのだ。そんな金で自分の仕事と暮らしが支えられている。その世界に自分の生涯を掛けた。そんな自分への自己嫌悪か?
 考えれば考えるほど、凄いシーンである。
 
 このような時代背景をキャンバスに、チャップリンは極上のラブストーリーを描いた。大恐慌時代の落ちこぼれでしかない2人にも、人としての美しさは溢れるほどにあることを描いた。いや、落ちこぼれだからこそ、栄耀栄華を楽しんでいる人々にはありえない、魂が揺さぶられる愛が育つ姿を描いた。
 
 大金持ちから100ドル札10枚、計1000ドルせしめたチャップリンが乙女のアパートを訪れる。ポケットから札束を取り出したチャップリンは、まず1枚を自分のポケットに戻す。自らの生活費である。そして2枚を乙女に渡し、
 
 "This is for the rent."
 (これで家賃を払いなさい)
 
 さらに、残りの7枚を渡しながらいう。
 
 "And this is for your eyes."
 (これは君の目を治す分だ)
 
 乙女は思わずチャップリンの手を握りしめ、手の甲にキスする。するとチャップリンは、自分のポケットに残した1枚も、乙女に渡してしまう。
 たったこれだけの言葉で、2人の間には深いつながりができあがる。そう、本当の愛とは、この程度の言葉で伝わるものなのである。

 

 

(余談)
ハリウッド映画を見ていて、アメリカって不思議な習慣を持っているなあと思ってしまうのは、夫婦がいつもI love you.と言い交わしていることである。あれほど手あかにまみれてしまうと、love も安くなったものだと毒づきたくなる。のは、私だけなんだろうか……。

 

 乙女との心の通い合いに酔いしれたチャップリンは、だが、すぐに正気に返る。
 
 "I must be going."
 (もう行かなくては)
 
 乙女の手にキスをし、名残惜しそうに乙女の手を愛撫する。もう、先ほどまでの満足は表情にない。いま、目の治療費を乙女に渡した。治療は成功する。彼女は目が見えるようになる。だが、目が見える彼女にとって、私は金持ちではない。薄汚い浮浪者に過ぎない。このまま黙って彼女の前から消え去るしかない。これが最後の逢瀬なのである。
 
 "You are not going away?"
 (行ってしまわれるのではないですよね?)
 "For a while."
 (しばらくお目にかかれない)
 "But you are coming back!"
 (またお会いできますよね!)
 
 すがるようにいう乙女に、ほとんど表情のない顔で頷いたチャップリンはドアから出ていった。もちろん、チャップリンの頷きが乙女に見えたはずはない。
 恋する女性に尽くす。尽くせるだけ尽くす。そして、自分が不要になったら、黙って去る。悲しくも美しい別れのシーンである。
 
 最後の出会いのシーンは、あえて粗筋に書かなかった。粗筋で書くのがもったいなかったからである。
 それは、胸を締め付ける愛のシーンである。
 
 刑務所を出たチャップリンは、ボロボロの姿で街を歩く。街で新聞を売る子供たちの格好のからかいの的だ。貧しき者がより貧しき者をバカにして一時の楽しみを得る。悲しき人間の性ではある。
 花屋の店員が出て歩道を掃く。小さな花が歩道から車道に掃き出される。チャップリンは花屋の前を通りかかり、車道に落ちた花に気がついた。乙女に最初に会ったとき、フラワーホールに差してくれたのと同じ花だ。チャップリンは思わず拾い上げ、ボロくず同然の上着のフラワーホールに自分で差し込もうとする。失った恋を、また胸に差す。これも子供の笑いの的となる。

 振り返って、花屋のウインドウを見た。ウインドウの向こうにあの乙女がいた。目と目があった。右手はフラワーホールに届かないまま、花と一緒に胸の前で止まった。チャップリンはそのまま呆然と乙女を見つめる。毎日、何度も何度も思い出した、恋しくてたまらない乙女が、いま目の前にいる!

 見つめられた乙女は、穴が開くほど自分を見つめる浮浪者に怪訝な表情をし、やがて吹きだす。
 
 "I've made a conquest!"
 (あの人、私を好きなったみたい!)
 
 残酷な言葉である。だが、チャップリンには聞こえない。花を捧げ持ったまま、目は乙女から離さない。それはそうであろう。彼の唯一の希望なのである。彼女の目を治すために刑務所にまで入った。その乙女がいま目の前にいて、見えるようになった目で自分を見ている。
 彼の持つ花から、花びらが落ち始めた。1枚、2枚、3枚。花が散るのと一緒に、彼の恋が散る。そう、目が見えるようになった彼女にとっては、彼はみすぼらしい浮浪者に過ぎない……。
 
 乙女が同じ花とコインを1枚持って外に出てきた。チャップリンの姿に同情したのだろう、花と少しばかりの金を恵もうというのだ。気がついたチャップリンは逃げ出す。例え相手が気づいていなくとも、恋しい助成に自分の惨めな姿を見せたくないのは、男なら誰にでも覚えのあることである。
 が、乙女が呼び止め、花を差し出す。逃げたい。でも、そばにいたい。チャップリンはおずおずと左手を伸ばし、乙女の手に触れないようにそっと花を受け取った。顔には寂しい笑みが張り付いていた。
 さらに乙女はチャップリンの左手をつかみ、自分に引き寄せて無理矢理コインを左手に押し込む。その瞬間、乙女の表情が変わった。日本語で書けば、
 
 「えっ?」
 
 であろう。
 チャップリンは左手を乙女に委ねたまま、花を持った右手の爪をかみながら、乙女の顔をじっと見つめる。寂しそうな笑みは残ったままだ。乙女がチャップリンの左手を握ったまま、右手を腕から肩、胸に伸ばした。チャップリンに触った手を自分の頬に持って行くと、口を開いた。
 
 "You?"
 (あなたでしたの?)
 
 たった3文字の言葉が、これほどの思いを伝えた例が他にあるか? 恩人、恋人、心の支え、立派な紳士、大金持ち、そして、ボロを身にまとった浮浪者。この瞬間、乙女の脳裏にどのような思いが駆けめぐったのであろうか。
 
 目で頷きながらチャップリンはいう。
 
 "You can see now?"
 (見えるようになったんだね?)
 
 乙女が応える。
 
 "Yes, I can see now."
 (ええ、あなたのおかげで)
 
 乙女は、チャップリンの手を離さない。抱きしめるように胸に持って行く。チャップリンの笑みが、徐々に、徐々に暖かい笑いに変わった。
 
 ああ。
 ボロは着てても心は錦!
 人間って素晴らしい!
 生きてて良かった!!

 心にホッカイロを10個も入れたような、暖かな思いに包まれる名作であります。いや、10個も入れたら低温火傷をしてしまうかな?
 
 もちろん、チャップリンならではのドタバタ劇もたっぷり楽しめます。見て損のない86分ですぞ!

 

 【メモ】
街の灯 (CITY LIGHTS)
 1934年1月公開、上映時間86分
監督・制作・脚本・作曲:チャールズ・チャップリン Charles Chaplin
出演:チャールズ・チャップリン Charles Chaplin
   ヴァージニア・チェリル Virginia Cherrill
   フローレンス・リー Florence Lee
   ハリー・マイアーズ Harry Myers


【初出2005年7月22日】

▲【シネマらかす】にもどる               

*当サイトの記事及び画像の無断転載は禁止します。
*ご意見・ご感想・お問い合わせはメールでお願い致します。