#40 : 酔っぱらった馬の時間 − どうにもならないもどかしさ

 人生はつらい旅 苦労ばかりが続く
 人生はつらい旅 子供さえ老いてしまう
 険しい山々を越え 谷をさまよう毎日
 人生はいつしか 僕らの若さを奪ってしまう
 そして僕らを 死に近づけて行く
 
 まだ10歳をそれほどでない子供たちが、トヨタのトラックの荷台で声を合わせて歌う。アラブ風の小節をきかせながら歌う。
 この歌詞である。むろん、歌う彼らが楽しそうな表情を見せるはずがない。だが、その表情に絶望の臭いはない。嘆きもない。涙もない。トラックの荷台に揺られていく暇つぶしに、淡々と歌う。彼らにとって、人生がそのようなものであるのは、太陽が東の空に昇って西の地平線に沈むのと同じように当たり前のことであるらしい。
 
 「酔っぱらった馬の時間」の、始まって間もないシーンである。
 子供たちは、村から遠く離れた町で働いて帰る途中だ。町はイラン・イラク間の密輸基地になっている。ここで密輸品の積み卸しや梱包をするのが彼らの暮らしだ。新聞紙でコップを包む。輸送中割れないようにするためだ、石けんの包装をはがす。少しでも沢山運べるようにするのである。積み卸しはそれより賃金が高い。だが、その仕事にありつけるのはほんの一部の子供たちだけだ。家庭内で有力な働き手である彼らは、その仕事を奪い合って殴り合いまでする。そして夕闇が迫ると、トラックの荷台に乗って村に帰る。その途中で出るのが冒頭の歌なのである。
 彼らの日常はそのようにして過ぎる。
 
 初めて見たイラン映画である。NHKのBS2で5月14日深夜(カレンダー上では15日)に放送された。いつも頼りにしている雑誌「BS fan」では3つ星(満点は4つ星)だったが、イラン映画という物珍しさも手伝って録画し、数日後に見た。彼らが生きる人生の、あまりの過酷さに、しばらく言葉を失った。
 
 主人公の少年アヨブは、イラクとの国境近くにあるサルドアーブ村に住むクルド民族である。国境地帯は、よほど高地にあるのだろう。村を少し出ると、いつも深い雪に覆われている。
 家族は、父、姉のロジン、15歳になるのに身長は60〜70cmしかなく、それに死期が迫った病も抱える兄のマディ、妹のアーメネ、それに幼い妹の6人。母は末の妹を生むとすぐに死んだ。密輸品の運搬をしている父の収入だけでは家族を支えきれない。アヨブは時間が許す限りアーメネとマディをつれて町まで出かけ、密輸の手伝いで小銭を稼ぐ。
 
 その日、アヨブたちが町から戻ると、既に冷たくなった父がラバの背中に乗せられて戻ってきたところだった。国境地帯に数え切れないほど埋設された地雷に触れたのである。村には叔父がいるが、8人の子供を抱えてアヨブたちの暮らしは支えきれない。こうしてアヨブは、幼くして一家を支える家長にならざるを得なくなった。稼がねばならない。アヨブは学校をやめ、密輸の仕事に打ち込む。
 
 不幸な一家を、さらに不幸が追いかける。
 
 「(マディは)できるだけ早く手術を受けさせないといかん。もう手術しか道は残されていない。あと1ヶ月が限度だ」
 
 マディの治療にあたっている医者がいった。手術費は5万トマン。医者は手術をしても、余命は7〜8ヶ月であるとも伝える。だが、アヨブは、何としてでも手術を受けさせようと決心する。

 

 

(ご参考)
「トマン」という通貨単位がよく分かりませんが、ネットで検索したら、公定レートは1ドル=300トマンとありました。だとすると、5万トマン=167ドル=約1万7000円ということになります。
もっとも、この情報は日付がないため、現在でもこのレートであるのかどうかはっきりしません。さらに、為替レートで日本円に直しても、現地での通貨価値は分かりません。イランの物価水準は日本の10分の1という情報もありますので、だとすると、5万トマンは15万円〜20万円というところでしょうか。

 

 叔父の口利きで、密輸業者ヤーシンの配下となったアヨブは、荷物を背負って国境を越える仕事を始めた。ヤーシンの密輸品は直径が1.5mほどもある大きなタイヤが主だが、これはラバを持ってないと運べない。ラバのないアヨブは小物を詰め込んだ袋を担いで歩く。しかし、これでは稼ぎは目に見えている。マディの手術費を貯めるなど夢である。
 
 叔父がロジンの縁談を持ってきた。嫁ぎ先は、結納は出さないが、その代わりマディを引き取って手術を受けさせると約束する。アヨブ一家の先行きを心配していた叔父は、この話に飛びつく。ロジンも拒めない。アヨブは嘆き悲しむが、とうとう嫁ぐ日が来た。ロジンは精一杯着飾ってラバに乗り、もう1頭のラバに嫁入り道具を乗せ、マディを入れた袋を下げて家を出る。あきらめきれないアヨブは共に歩く。
 
 嫁ぎ先の一家が待ち受けていた。ロジンとマディがその中にはいると騒ぎが起きる。嫁ぎ先の母親がマディは引き取れないと言うのだ。すったもんだの末、マディは追い返され、ラバを1頭貰うことになった。結納代わりである。
 
 アヨブは考えた。このままではマディは手術を受けられない。手術代……。よし、イラクに行ってこのラバを売ろう。ラバはイラクの方が高く売れる。売った金で、イラクでマディに手術を受けさせよう。
 アヨブはヤーシンの一行に加わった。ラバにタイヤを積み、マディを背中にしょって国境を目指した。国境地帯はいつも雪に覆われている。その日は冷え込みが強かった。ラバの体温を保持するため、出発前に酒(ウォッカではないかと思うが……)を混ぜた水を飲ませる。いつもは酒を1本入れるのだが、寒さを考慮してこの日は4本入れた。アヨブのラバも、その酒入りの水を飲んで出発した……。
 
 
 それにしても、人生とは、時と所によって、どうしてこんなに違う顔をして現れるのだろう。むろん、日本だって、私の周りだって、人生はそれぞれの人に違う顔を見せる。だが、アヨブの目から見たら、日本人の人生って、きっと似たり寄ったりに見えるに違いない。アヨブは日本人の暮らしに王侯貴族の暮らしをダブらせるだろう。
 
 人生は重き荷を負うて遠き道を行くが如し
 
 徳川家康がそういったそうだ。だが、家康の場合は「如し」であった。アヨブには「如し」がない。重い荷物を、小さな肩ではしょいきれないほどしょって、毎日遠い道を歩く。それが彼の人生なのだ。
 
 さて、中学生の頃、つまりアヨブと同じ年代だった頃、あなたの楽しみは何でした?

 家庭が貧しかった私は当時、新聞配達のアルバイトをしていた。いまと違って、新聞休刊日は年に3回しかなかった。正月1日の夕刊と2日の朝刊、こどもの日の夕刊と翌日の朝刊、秋分の日の夕刊と翌日の朝刊である。他の日は朝刊も夕刊もあった。私は日曜日も朝と夕、新聞の束を抱えて歩いた。
 そのころ、私の最大の楽しみは、毎週日曜日の朝、ラジオから流れてくるポップスベスト10を聴くことだった。プレスリー、キャスケーズ、ブレンダ・リー、ジョニー・ティロットソン、ヴィレッジ・ヴァンガーズ、ポールとポーラ、クリフ・リチャード……。前にも書いたが、毎週のランキングを折れ線グラフにして1人喜んでいた。
 むろん、音楽だけが楽しみだったわけではない。学校の友達とゴーカート作りを計画した。車体は木で作る。エンジンは小型バイクのものを安く譲って貰う。タイヤは、ハンドルは……。毎日相談しては設計図を書き直し、前輪の向きを変えるハンドルの機構を考え、アクセル、ブレーキの仕組みを詰めた。残念ながら制作までには至らなかった。金がなかったのである。もっとも、金があったとしても、エンジンの仕組みさえ知らない中学生にゴーカートを作ることができたとはとても思えない。金がなかったのは幸いだったかも知れない。
 友人の家に泊まり込んで、深夜まで馬鹿話をし、歌謡曲のレコードに会わせて蛮声を張り上げた。
 教室には憧れの女生徒がいた。目があって笑顔が貰えると、その日は何故か心が浮き立った。
 たまに行くデパートも楽しみだったし、嫁いだおばさんが土産を持って里帰りしてくるのにも心が弾んだ。
 なにより、未来に希望を持っていた。この暮らしから必ず抜け出してみせる。抜け出すのが使命である。未来の形は定かではなく、そのための準備をしていた覚えもないが、何故か、今日と明日が同じであるはずがない、明日は今日より良くなるという、宗教にも近い思いがずっと胸にあった。

 暮らしは貧しくとも、それなりの楽しみがあった。
 
 アヨブは?
 アヨブには楽しみと呼べるものが何もない。彼は黙々と荷を運ぶ。紐が肩に食い込む。雪に覆われた山道を一日歩いて自宅に帰ると、ナンとゆで卵とトマトの夕食が待つ。あとは寝るだけ。満足できるほどの収入もない。明日は今日よりよくなるという希望もない。雪の中を歩くのに、手袋さえない。
 なのに、明日はどうなるのだろうという不安は抱えきれないほどある。
 それに、アヨブには友人の姿がない。暮らしに追われて友を持つ時間も作れないのか? ましてや、異性の影は皆無である。あの胸を焦がすような、嬉しいような、恥ずかしいような思春期の思いと、アヨブは全く無縁なのか?
 
 だがアヨブには、我々の豊かな暮らしからは消えかかっている大きなものがある。
 家族への限りない愛である。
 
 兄のマディは発育障害だ。15歳になっているのに背は妹のアーメネより小さく、知能も幼児程度でしかない。その面倒をアヨブが見る。徹底的に見る。町に連れて行き、トラックの荷台では抱きかかえ、薬を飲む時間が来ると、水のない場所では雪を口に詰めてやったり、唾で飲み込めと教えたりする。医者に連れて行くのもアヨブの役目だ。姉の嫁ぎ先から拒絶されたマディを抱きかかえて雪の山道を家に連れ帰り、ついには、わずか半年あまりの延命のために背中にしょって国境越えを試みる。
 嫌な顔一つ見せずに、マディを慈しみ続ける。もし自分がアヨブだったらと考えると、頭を下げるしかない。
 
 妹のアーメネへの愛も美しい。暮らしを支えるために自分は学校をやめながら、アーメネには絶対に学校をやめるなと諭す。ノートを切らしたアーメネのために、学校まで新しいノートを届けてやるのもアヨブだ。
 一度だけアーメネを殴った。むずがるマディに負けて、雪の中、アーメネがマディを父の墓まで連れだしたときである。
 
 「マディは病気なんだぞ。何かあったらどうする!」
 
 「だだをこねたの」
 
 「言い訳するな!」
 
 アーメネを殴ったのも、マディの体を心配してのことだ。自宅でむくれているアーメネをなだめ、学校の成績を褒めてやり、ちゃんと仲直りをする。
 
 「夕食のあと算数を見てやるからな」
 
 そして、マディの手術のため国境を越えようとした日--。
 
 国境を目前に、アヨブたちは国境警備隊に挟み撃ちされる。なにしろ、彼らは密輸業者なのだ。逃げ場を失った一行は谷底へ逃げようとするが、出発前にラバに飲ませた酒入りの水が悪かった。いつもの4倍のアルコール濃度がある水を飲んだラバたちはすっかり酔っぱらっており、1頭、また1頭と雪原にへたり込んでしまう。必死にひもを引き、雪をすり込み、叩き、蹴飛ばしても、ラバは酔いの回った目で見上げて気持ちよさそうに雪の上に横たわったままである。必死になってラバを起こそうとし、大人の助けを求めるアヨブだが、ラバはなかなか応えてくれない。大人たちも自分が逃げるので精一杯だ。タン・タン・タンという軽機関銃の銃声が近づいてくる……。
 
 やっとラバが起きあがってくれた。が、もう周りには大人たちの姿は見えない。マディを背負い、ラバを引いたアヨブは雪原の中を歩く。すると、螺旋状に巻かれた鉄条網が続く所に出た。国境である。しばらくためらったが、アヨブはマディとラバを連れて鉄条網を乗り越えた。ラバに掛けていた毛布が鉄条網に引っかかってその場に残った。カメラは動かない。イラクに入ったアヨブとマディとラバはそのカメラの前を歩き続け、画面から消える。その瞬間、映画は突然暗転して終わり、エンドロールが始まる。
 我々の目から歩み去った彼らを待ち受けたのはどんな運命だったのか……。
 
 話は少し戻る。アヨブがマディとラバを伴って国境を越えようとする前、画面にナレーションが被さる。声の主は妹のアーメネだ。
 
 (姉の嫁ぎ先から)戻ってきたマディはとても弱っていた。お医者様がずっと留守だったから、1週間も注射を打ってなかったの。お兄ちゃんはおじさんに黙って、マディとラバを連れて市場へ行った。イラクでラバを売ると言ってたわ。イラクの方が高く売れるからよ。
 「向こうでマディに手術を受けさせてすぐに帰ってくる。だからいい子で待ってろ」
 そう言ってたわ。
 
 最初に見たときから気になっていた。何故か、アヨブを語るとき、過去形なのである。まるで思い出話をしているみたいだ。何故だ?
 エンドロールを見ながら、そうだったのか、と思った。
 アヨブは、地雷を踏んでしまったのだ。限りなく家族を愛し、思いやり、クタクタになるまで働き、マディに手術を受けさせたいと思い続けたアヨブは、父の年まで生きることもなく、父と同じ運命を辿ってしまったのだ。
 この映画は、アーメネが、優しかった亡き兄を追慕する思い出話だったのである。
 アヨブの短い一生って、いったい何だったのだろう……?
 
 映画の冒頭、英語の字幕が出る。
 
 I was born and raised in a small town in the Kurdish region of Iran. My childhood and adolescent memories in Kurdistan have been the strongest source of influence for my films. A Time for Drunken Horses is my first feature film, and one of the first Iranian shot in Kurdish. I made this film as a humble tribute to my cultural heritage.
 I believe film is an excellent medium for promoting deeper awareness of the Kurds, a 20-million strong ethnic group living as minorities in Iran, Iraq, Turkey and Syria. The Kurds you see in this film are not figments of my imagination. They represent real people whose brave struggle for survival I have personally witnessed in my thirty years of living among them.
 (私はイランのクルド地方にある小さな町で生まれ育った。少年時代、青年時代におけるそこでの記憶は私の映画に大きな影響を与えている。この作品は私にとって最初の長編映画であり、クルド語で撮影されたほぼ初めてのイラン映画である。私はこの映画を、私が受け継いだものへのささやかな捧げものとして作った。
 映画はクルド人の現状を伝える最適の手段だと私は信じている。現在2000万人のクルド人が少数民族としてイラン、イラク、トルコ、シリアに暮らしている。この映画に登場するクルド人たちは私が想像したものではなく、懸命に生きようとする現実の彼らの姿である。30年間私が間近で見てきた同胞たちの姿なのだ)
 
 クルド族は何度か民族自立を目指した。しかし、いまに至るまで自分たちの国を持ちえず、国際関係の狭間で翻弄され続けている。そんな民族の一員として育ったバフマン・ゴバディ監督は、クルド族の現状を世界に伝えたかった。だから、自分の民族の言葉であるクルド語をあえて使わず、彼にとっては外国語である英語でこのメッセージを記した。
 
 観客は、受け取るのをためらうほどの重いメッセージを受け取る。でも、どうしたら……。
 
 かつて、The Beatlesの一員であったGeorge Harrisonは、バングラデシュの難民を救うため、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでコンサートを開いた。収益金を難民に寄付するのが目的だった。コンサートにはエリック・クラプトン、ボブ・ディラン、レオン・ラッセル、ジム・ケルトナー、クラウス・フォアマンなど総勢25人が参加し、レコードも、ビデオも出た。その結果、25万ドルの売り上げをユニセフ(国際児童救済基金)に寄付した。
 だが、果たして役に立ったのか?
 いま、バングラデシュでは小学校5年生までが義務教育だそうだ。ほとんどの子供が小学校には入る。しかし、卒業するのは2割程度にとどまっているという。家が貧しくて、働いて家計を助けなければならないのである。
 
 世界のトップアーティストが集まっても、実はバングラデシュの人々の暮らしはほとんど変えることはできなかった。では、バフマン・ゴバディ監督のメッセージを受け取った我々にできることは何か?
 何もない。どう考えても、何もない。どうにもならないもどかしい思いを持つだけである。私は、我々は、猫の手ほどにもクルド族の人々の役に立つことはできない。それが、冷徹な事実である。彼らが、自分の力ではい上がることをじっと待つしかない。
 「酔っぱらった馬の時間」は、だから、つらい映画である。でも、是非見て頂きたい映画でもある。
 
 最後に、この作品は2000年のカンヌ国際映画祭で、カメラ・ドールと国際批評家連盟賞を受賞したことを付け加えておく。
 ふむ、審査員たちはこの映画を見て、何を感じたのだろう?

 

 【メモ】
酔っぱらった馬の時間 (A TIME FOR DRUNKEN HORSES)
 2002年10月公開、上映時間80分
監督・制作・脚本:バフマン・ゴバディ Bahman Ghobadi
出演:アヨブ・アハマディ = アヨブ
   アーマネ・エクティアルディニ = アーメネ
   マディ・エクティアルディニ = マディ


【初出2005年7月8日】

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