#39 : 屋根 − 安ワインの味

 しかし、まあ、これを家と呼ぶのだろうか?
 ドアはある。窓もある。でも、画面から判断すると、一辺がわずか3mほどの、四角な箱でしかない。とすると、居住面積はわずか9u、たったの2.7坪だ。畳の部屋にすると、5.4畳。マッチ箱のような、と形容するのもはばかられるほどの、小さな小さな、限りなく小さな箱である。
 しかも、壁はセメントと石灰を間に挟みながら煉瓦をくっつけただけ。鉄筋も鉄骨も入ってない。地面がぐらりと揺れたりすれば、あるいは、ちょっと勢いよく人がぶつかったりすれば、たちまちにして崩壊するに違いない。
 むろん、風呂などない。風呂ばかりか、トイレも洗面所も台所もない。中では、人が寝起きできるだけ。
 
 「屋根」は、結婚したばかりのカップルが、こんなちっぽけな住まいを手に入れるまでの奮闘努力を追った映画だ。監督は、「自転車泥棒」で著名なヴィットリオ・デ・シーカ。第2次世界大戦が終わったばかりのローマが舞台で、見終わると、なぜか、
 
 「ふーん、こんなだったら、貧乏も楽しいかもね」
 
 と心がホカホカと暖かくなる。どっかのお弁当屋さんのコマーシャルのような映画である。
 
 左官見習いのナターレと住み込みのお手伝いルイーザが結婚した。だが、ルイーザの父は結婚に反対で、ルイーザの家族は結婚式にも出てこない。
 
 まあ、自分で娘を持ってみればその気持ちはよく分かる。
 左官は立派な職業とはいえ、ナターレはまだ見習いでしかない。急ぐことはないではないか。漁師である自分も決して裕福ではない。だから、ナターレが金持ちになるまで待てとはいわない。だが、せめて1人前の左官になるまで待ったらどうだ? まだ若いのだから、焦ることはないではないか。
 
 だが、いつの時代でも変わらないのは、燃え上がった恋の炎だ。
 もう待ちすぎるほど待った。これ以上は待てない。お金? 私たちの愛をお金なんかで量らないでいただきたい。我々は純粋なのである。愛に生きる、神々しい存在である。なのに、お金でしか見ない大人って、不潔きわまりない! やっていけるさ。少しばかり貧しくても、愛があるんだから!
 恋は盲目(Love is blind.)、という奴である。ま、確かに、すべてを数字に還元し、愛があってもお腹はくちくならないぞ、雨露はしのげないぞ、と冷徹な判断をしてしまう人間には、恋はできない。恋にはいつも、視力を失ったような危うさが付きまとう。いや、視力を失ったような状態になるから恋ができるといえないこともない。

 

 

(余談)
大学3年生の時に急遽結婚してしまった私は、彼らのことを非難できませんです、はい。私も、我が妻も同じ穴の狢(むじな)なのですから。

 

 若気の至りである。若気が至ってしまったから、2人は住む所のあてもなく結婚式を挙げた。当面の住まいはナターレの両親が住む家だ。
 
 よくぞまあ、こんなところで同居する気になったものだ。両親と、姉の家族、それに妹が住む家は、2間しかないアパートだ。左官である義兄のチェーザレ1人の収入では、これがやっとなのである。
 これまでは、そのうちの1間に両親と妹が休み、ダイニングキッチンに姉の家族が寝起きしていた。布団という、この上なく便利な移動式寝具で部屋を幾通りにも使うという知恵がなかった欧米の方々は、ベッドという据え付け方式の寝具を使う。これが2間を占領する。狭い。この上なく狭い。
 そこにナターレとルイーザが加わる。プライバシーなどあったのもではない。2人だけの時間を持つには、星の輝く夜、そっと戸外に抜け出すしかない。
 
 このような状態が続くと、人の神経はささくれ立つ。いや、両親と子供だけの核家族ならば何とでもしようはあったろう。しかしこの一家は、両親、姉の家族、ナターレの夫婦、それに妹たちが同居する。ファミリーとはいいながら、いつしかつまらないことで、それも金銭がらみのけちくさい話で、お互いを刺し合うハメになる。ナターレたちもそうなった。電球の消し忘れ、電気アイロンの使用、照明をつけての読書……。
 
 「誰が金を払ってると思ってるんだ!」
 
 「僕だって、金は負担してるぞ!」
 
 悲しくなるほどつまらない話で、チェーザレと売り言葉、買い言葉を投げつけあったのである。

 

 

(余談)
何度も書いたが、私も子供時代は貧しかった。10畳1間で、親子4人で暮らしたこともある。だが、庭は養鶏ができるほどに広かった。
だが、そのころ友達の家に行って唖然としたことがある。借間なのだろう、入り口を入ると、どうみても8畳程度しかない部屋で家族6人が暮らしていた。下には下があるものだと、子供心に焼き付いた。

 

 2人は荷物を荷車に載せて家を出る。部屋を借りて2人だけで住むのだ。お金を貯めて1年後にはそうするつもりだった。予定が少し早まっただけだ。経済的にはつらいが、でも、これで2人っきりになれる。誰憚ることなく愛を交わせる。
 金の心配はしながらも、一面では新婚ホヤホヤの2人の心は躍っていたに違いない。
 
 ところが。
 あてにしていたアパートが、危険家屋として取り壊しの対象になっていた。しかたなく、ナターレは見習い左官として働く現場の作業小屋に家財道具を運び込み、そこで寝泊まりを始める。ルイーザは、お手伝いをしていた家に潜り込む。新婚早々で2人は、2人だけの夜を楽しむどころか、別居生活を強いられたのだ。
 そのとたん、ルイーザは自分が妊娠していることに気がつく。もう一刻の余裕もない。

 

 

(余談)
不思議なのだ。全くプライバシーがない2人なのに、いつの間にそのようなことをしでかしていたのだろうか? まさか、両親と妹が寝ている部屋でことに及んだとも思えないのだが……。

 

 敗戦直後のローマには、不思議な制度があった。いや、制度というより、極端な住宅不足が引き起こした無政府状態といった方が正確だろう。空き地に勝手に家を建てて住むのである。まあ、戦後の日本にもあったバラックだと思えばよろしい。
 しかし、戦後の混乱も治まってくると、政府は規制に乗り出した。警察官が見回り、違法建築物は取り壊すのである。そりゃあそうだろう。政府として公有地が勝手に占拠されるのを放っておくのは職務怠慢というものである。
 そのようになっても市民の権利には最大限の配慮をするのもイタリアなのだろう。屋根がある家は立派な住居と見なされて、取り壊しの対象にならない。取り締まり、取り壊しの対象になるのは、まだ屋根が完成していない建築物なのである。
 ローマ法を引き継ぐイギリスには、
 
 An Englishman's home is his castle
 
 ということわざがある。ローマ法の本拠地、ローマには、この精神が根付いているのに違いない。
 
 これを使わない手はない。2人は違法建築のマイホームを作ることに決めた。だが、屋根を葺きあげるまえに警察官に見つかっては取り壊される。煉瓦を積んだだけの家は、情けないほどあっけなく壊されてしまうのだ。
 建築期間は、警察官の夜の見回りから朝の見回りまでの間。長く見積もっても、せいぜい12時間である。この短い時間で、ナターレとルイーザは、喉から手が出るほど必要な、憧れのマイホーム建築に成功するのか? 戦いが始まった……。
 
 こうして、冒頭に書いた、マッチ箱より小さな住居ができあがっていく。これは、戦後の混乱期にあったローマにおける一夜城物語である。
 
 話は突然、戦国期の日本に飛ぶ。
 ナターレとルイーザが一夜にしてマイホームを建てようと奮闘していた時から400年ほど前の1566年、木下藤吉郎は現在の岐阜県安八郡墨俣町に大車輪で砦を作っていた。有名な墨俣の一夜城である。
 斎藤勢が立てこもる稲葉山城攻撃の前線基地を必要とした織田信長が部下に命じたが、佐久間信盛も柴田勝家も失敗する。砦を作られてなるものかと襲いかかる敵をかわしながら砦を作るなど、常識に反した作戦だった。
 その時進み出たのが木下藤吉郎だった。蜂須賀一族の支援を取り付けた藤吉郎は見事に砦を築いた。実際には1週間ほどかかったらしいが、それは問題ではない。
 この築城で、藤吉郎は出世の糸口をつかむ。それだけでなく、できるだけ兵の損耗を抑え、大規模な土木工事で敵を倒していった秀吉の戦法の原点ともなった。

 

 

(余談)
何度か書いたが、私は岐阜にも住んだことがある。岐阜市長良福光。長良川にほど近く、ベランダに出れば金華山が望める5階建てのアパートの一室が我が住居であった。
そこから30〜40分、長良川に沿って車で走れば墨俣に着く。なのに、当時の愛車、フォルクスワーゲン・ビートルを転がして現地を訪ねようという気すら起きなかった。当時の私の歴史への関心の持ち方は、その程度でしかなかった。実に惜しい機会を逃したと後悔したのはずっと後のことだ。

 

 秀吉は才能に恵まれていた。その才能を何とか信長に認めさせねば、このまま1人の家来として終わってしまう。一夜城建築は、上昇意欲に溢れた秀吉の賭だった。賭に勝った彼はのちに城主となり、天下を取る。

 ナターレとルイーザに才能はなかった。出世欲もなかった。ただただ、2人だけの城を持ちたかった。一夜にして自分たちに城を完成させなければ住む所がない。秀吉よりはるかに切実だった。
 
 ヴィットリオ・デ・シーカ監督は、戦後の復興期、貧しい暮らしの中で額に汗して働く人々の、切実でちっぽけな夢を、何よりも優しい視線で描いた。監督は、貧しい人々への共感と愛に溢れている。そうでなければ、「屋根」は、違法建築を推奨する映画でしかない。
 
 住まいがない。切実な問題だ。とはいえ、市民がどこにでも勝手に家を作っていては秩序が失われる。秩序なき世界では力だけがものをいう。力ある者がすべてを支配する。この映画でも、やくざまがいの男が空き地に杭を打ち、占有権を主張する。この程度は始まりに過ぎず、放っておけばやがてはやくざが取り仕切る。がっぽりとうまい汁を吸って資金源とする。搾り取られて泣きを見るのは普通の人々である。
 力がすべてを支配する世界の到来を避けるには、その場は苦しくとも、秩序を守らねばならない。
 冷たいようだが、それが世の常識である。
 
 しかしこの映画は、個人の必要が切実であれば、社会の秩序は無視してもよい、という立場に立つ。秩序を守る立場にあるお役所が、秩序を守るために作る法律や条例にも、必ず抜け穴がある。その抜け穴を利用して、切実な欲求を満足させることは善である、という考え方に立つ。
 その抜け穴が屋根なのだ。屋根のある建築物には、役所は手が出せない。だから、役所の目である警察官が見回りに来る間に、屋根付きの住居を完成させる必要があるのだ。
 
 おいおい、そんなものを推奨していいのかね? 我が理性はそう叫ぶ。
 でも見ているうちに、ナターレとルイーザの決断に
 
 「そうだ、そうだ」
 
 と肯き、ほら、早く屋根を葺かないと警官が来ちまうぞ! と声援を送ってしまう。
 
 なにしろ、住宅問題が深刻すぎる。ルイーザの義兄は立派な左官職人で、現場では親方だ。なのに、自宅はたった二部屋、ここに3世代が同居する。
 他の家庭も似たり寄ったりだ。一足先に違法に建てた一戸建てに住んでいるとはいっても、どれもこれもマッチ箱でしかない。雨風を凌ぐだけの場所でしかない。
 
なのに、町に出れば、マイカーが走る。ルイーザが働く分譲マンション建築の現場にやってきた買い主親子は、

「風呂場をもっと広く」

と注文をつける。この風呂場だけだって、後にルイーザとナターレが手に入れる住宅に比べれば、はるかに広い。
 耐えられないほどの貧富の差。どんな手段を使っているのか知らないが、いい思いをしている奴らもいる。どうして我らがナターレとルイーザだけが夢を持ってはいけないのか? それも、御殿に住みたいのではない。たった2.7坪の夢なのである。
 革命的気分というのは、このような環境で育まれる。いまや私は革命派だ。
 
 違法建築が警察官に見つかって、
 
 「住所は?」
 
 と聞かれたルイーザが、
 
 「僕の方が知りたい」
 
 と答える。そうなのだ、ナターレとルイーザは住所不定でもない。住所を持てないでいるのである。ずるい奴らはたらふく食ってる。真面目に働く労働者の、ちっちゃな違法建築の1つや2つ、何か問題があるの?
 
 かくして私は、違法建築推進派に鞍替えしてしまう。そんな説得力を、この映画は持っている。
 
 それに、登場人物に根っからの悪人がいないのも清々しい。一面では、この映画から奥行きを奪っているかも知れないが、なーに、世の中には悪人なんてそれほどいやしない。特に、貧しいながらも額に汗して働く人々に悪人はいない。貧しい人々は、悪人になっていい思いをする才覚に恵まれない人たちなのだ。
 映画でほとんど唯一の憎まれ役は義兄のチェーザレだ。早すぎる結婚をして転がり込んできたルイーザとナターレに冷たく当たる。文句ばかり言う。おかげで喧嘩となり、ナターレとルイーザが飛び出して住宅探しの旅に出るのだが、そりゃあ、二間で3世帯同居し、タダでさえ狭苦しい思いをしているところへの押しかけ同居だもの、そもそも気分がいいはずがない。この世帯における唯一の非血縁者で、自分の稼ぎだけでこの世帯を支えているチェーザレにとっては、いて欲しくない邪魔者なのだ。
 
 「おいおい、自分で住むところの面倒も見られないようなヒヨッコが結婚なんて大それたことをしでかして、お前ら、頭がどうかしてんじゃねんのか?」
 
 と文句の1つや2つ口にしたくなるのは、人間として当然すぎる反応なのである。誰に責めることができよう?
 
 このままでは夜明けまでに不法建築が完成しない、助けてくれ、とナターレが夜中に駆け込んでくると、そのチェーザレがすぐに飛び起きて現場に駆けつけ、一心不乱に煉瓦を積み、屋根を葺く。
 チェーザレは、決して悪人ではないのである。
 
 そして、我々は心がホカホカになるシーンを目にする。
 現場に到着したチェーザレは直ちに上着を脱ぎ、仕事にかかろうとする。その時ナターレが、グラスにワインをついで手渡す。ナターレとルイーザが買えるワインである。高級品ではない。安ワインに違いない。だが、夜中、文句も言わずに駆けつけてくれたチェーザレへの感謝の気持ちがいっぱいこもったワインである。
 振り返ったチェーザレが、ナターレの顔を見てニッと笑う。実にいい笑顔だ。そのまま何も言わずに一気に飲み干す。
 それほど味が上等とはとても思えない。だがナターレの思いと、それを受け止めたチェーザレの笑顔で発酵して高級ワイン並みの味に変わっていたのではなかろうか。ナターレ・ルイーザとチェーザレの間にあったわだかまりが、瞬時に消えた。
 ナターレは思わず、2杯目のワインをチェーザレに渡す。こいつも飲み干したチェーザレは黙々と働き始める。もう残り時間は少ない……。
 
 私は日頃から、大量のアルコール飲料を楽しむ。だが、残念なことに、これほど美味そうなワインを飲んだ記憶がない。一度でいいから飲んでみたい。
 と思いながら、映画を見終わって焼酎を飲んだ。いつもの焼酎の味がした。私の暮らしには、あの安ワインはなかなか登場してくれない。
 
 ネットで調べていたら、ルイーザ役のガブリエラ・パロッタ、ナターレ役のジョルジョ・リストゥッツィは、ともにずぶの素人らしい。ネットで見ても、ガブリエラ・パロッタは他の作品にも出ているようだから、これをきっかけにプロになったのかも知れないが、ジョルジョ・リストゥッツィには他の作品が見あたらない。
 綺麗な、大変魅力的な女性なのに、その後どうなったのだろう? 気になるところではある。
 もっとも、いまでは押しも押されもせぬおばあちゃんになっているんだろうなあ。
 
 花の命は短くて……。

 

 【メモ】
屋根 (IL TETTO)
 1957年1月公開、上映時間110分
監督:ヴィットリオ・デ・シーカ Vittorio De Sica
出演:ガブリエラ・パロッタGabriella Pallotta = ルイーザ
   ジョルジョ・リストゥッツィGiorgio Listuzzi = ナターレ
   ガストーネ・レンツェリ
   マリオ・ディ・ローロ
   ジュゼッペ・マルティーネ
   マリア・ピア・カジリオ Maria-Pia Casilio


【初出2005年7月1日】

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