#25 : 激突! - 日常にある恐怖

 中学生の時だ。生徒会長だった1年先輩の安藤さんが浮かぬ顔をしている。元気がない。日頃快活な彼にしては、様子がおかしい。
 
 「安藤さん、どげんしたとですか?」
 

 「ああ、礼人君。失敗しちゃってさ。いやねえ、ほら、先日の実力テストなんだけどね。それで落ち込んでるんだ」
 
 私の通った中学は、田舎の公立校である。ここでは、定期的に実力テストなるものが行われていた。学校で作ったものではなく、いわゆる業者テストである。たくさんの中学で同じテストをするので、通っている学校のレベルに関係なく、客観的に自分のレベルを知ることができる。
 英・数・国・社・理の主要5科目に、確か音楽・保健体育・美術・技術家庭の4科目が加わり、9科目で200点満点であった。私はおおむね、160点内外であった。それでも、上から10%には入っていた。田舎中学なのである。自宅での勉強というものをした経験も意欲もほとんどなかった私は、そんなものだろうと思っていた。脳天気な日常である。
 
 安藤さんは、都会から転入してきた人だった。それに、いくら田舎中学とはいえ、生徒会長を務める人である。頭脳明晰、成績優秀だと聞いていた。そうか、そんな安藤さんでも失敗することがあるのか。でも、いくら失敗しても、せいぜい日頃の私の成績程度にまで落ちただけだろう。
 
 「安藤さん、本番の試験じゃなかとやけん、よかやなかですか。本番で失敗せんごとすっとが大事かとですよ。そっで、何点ぐらいとったとですか?」
 

 160点なのか、170点なのか、その答えを聞けば、我が中学で有名な大秀才のレベルが知れる。答えを待った。
 
 「ああ、それがだねえ。199点しか取れなかったんだよ。1箇所ケアレスミスをしてさ」
 
 「…………」
 

 200点満点である。199点である。ということは、たった1つ、答えが間違っただけである。それも、ケアレスミスである。そして、失敗したと落ち込んでいる。この人、試験は満点しか取ったことがないのかノノ。
 
 私はこの日、逆立ちしても太刀打ちできない頭脳を持つ天才がいることを知った。同時に、私が天才でないことも思い知らされた。
 安藤さんは、東京の日比谷高校に進学するといっていた。そうか、日比谷って高校は、こんな成績を取る人が受験するところなのか。いまの私が、日比谷高校出身者になんとなく気圧されるところがあるとすれば、その原因を作ったのは安藤さんである。  

 

 

(注)
当時の日比谷高校は日本で1番難しい高校といわれていた。

 

 安藤さんが無事日比谷に通ったのかどうか、その後どうなったのか、私は知らない。安藤さんがどこかのリーダーになって世の中に多大な貢献をしているという風評も聞かない。ひょっとしたら、彼も私と同じように社会の片隅で、広く世に知られることもなく、小市民的でそこそこの生活を送っているのか。だとすれば、安藤さんは
 
 十で神童十五で天才、二十すぎればただの人
 
 を絵で描いたような存在だったのかも知れない。彼が199点を悔やんでいたのは、確か中学3年のころ、15歳頃のことである。若き日の天才が、長じても天才であり続けることは至難の業であると見える。
 
 だが、スティーヴン・スピルバーグという監督は、若き日に天才であることを世に認めさせ、長じても天才性を持続している希有な人である。そのスピルバーグ監督の映画デビュー作が、この「激突!」だ。
 
 前にも書いたが、私がスピルバーグ監督の作品に初めて触れたのは、「レイダース 失われたアーク《聖櫃》」だった。その後見た「バック・トゥ・ザ・フューチャー」で完璧にはまった。こんなに面白く映画を作る監督がいるのか! ハリウッド映画が一変したような、ハリウッドに新しい風が吹き始めたような爽快感があった。
 ある日、レンタルビデオ店をのぞいていて見つけたのが、「激突!」である。スピルバーグ監督の作品だとある。早速借りて自宅で再生した。冒頭からラストまで、息つく暇もない恐怖、それも、日常生活のすぐそばにあり、ひょっとしたら明日我が身に降りかかるかも知れない恐怖に、テレビ画面から目が離せなかった。
 
 1972年、まだ24、5歳で、テレビ映画監督だったスピルバーグが、テレビ用に作った映画だとは、後で知った。いわれてみれば、あまり金がかかっているとは思えない。しかし、予算の制約を受けながらでも、映画館の大きなスクリーンは使えなくても、作り手に才があれば、これだけ見応えのある作品ができる。
 
 スティーヴン・スピルバーグは若くして映画の天才であった。この映画を見て、私はそう確信した。後の作品を見れば、彼の卓越した才能が持続していることは疑いない。十で神……、という世の常識に逆らう、希有な才能である。
 
 どこにでもいそうなセールスマンがある朝、いつものように車で自宅を出て集金に向かった。行く手を遮るノロノロ運転の大型タンクローリーに業を煮やして追い抜いたところ、それを怒ったのだろう、タンクローリーがセールスマンの車を執拗につけまわし、殺しにかかってくる。振り切って逃げようとするが、セールスマンの車はポンコツで、あまり速度が出ない。逆にタンクローリーは、外観からは想像もできないほど強力なエンジンを載せていて、我らがポンコツ車は追いかけられ、追いつめられる。無事に逃げ切れるのか……。
 
 粗筋はたったこれだけである。これだけを、観客の目を90分間釘付けにする恐怖映画に仕上げたのは、若きスピルバーグ監督の才能だった。
 
 この映画をたぐいまれな恐怖映画に仕立てているのは、主人公を追いつめるタンクローリーの運転手の顔が見えないことだ。主人公のデイビッドと我々が目にするのは、タンクローリーの運転席の窓から突き出された腕と、タンクローリーのボディの下からのぞく、Gパンとブーツに包まれた脚の先だけである。
 人間は、相手の顔が分かっていると何となく安心する。知り合いからかかってきた電話は怖くない。でも、どこの誰か分からない相手からの電話には何となく不安になる。ましてや、この相手は自分を殺そうとしているのだ。それなのに、顔が見えない。
 タンクローリーの運転手が、隣のよっちゃんに似た顔をしていたり、小柄な優男だったりしたら、恐怖感もいくらかは和らぐだろう。いかにもヤクザっぽい、凶暴そうな男であっても、顔が分からないまま追いつめられるのよりましだ。
 顔のない男に殺されそうになる。これは、怖い。

 

 

(余談)
この怖さ、そう、あれですよ。ドライバーの顔がまったくうかがえないほど色の濃いフィルムをウインドウに貼り付けた大型のベンツ。こんな車にぴったりと付きまとわれた日には、あなた、○○が縮み上がってしまいます! だって、どの手の方が中に乗っておられるのか、いやが上にも想像は膨らむわけでして……。
君子危うきに近寄らず
人生、そうあるべきものであります。

 

 顔が見えないということは、意思疎通ができないということでもある。意思疎通ができれば、逃れる術も見いだせるかも知れない。どうしようもなくなれば、床に頭をすりつけて、助けてくれと泣きつくことだってできる。それに、顔が見えれば、相手も生身の人間である。乗用車では太刀打ちできない巨大なタンクローリーではない。いざとなれば、腕力に訴えることも選択肢に入る。うまくすれば、相手をぶちのめせる。いかんともしがたい実力差で負けるかも知れないが、タンクローリーに押しつぶされるよりましだろう。
 意思疎通のできない男に殺されそうになる。これは、怖い。
 
 だからデイビッドは、運転手を特定しようと躍起になる。昼食を取るために立ち寄ったドライブインで、駐車場にあのタンクローリーが駐車しているのに気がついた。店内にいる客の1人がタンクローリーの運転手だ! どの男だ? 必死に特定しようとするが、失敗する。
 あるいは、道の途中で通せんぼをしているタンクローリーに、車を降りて近付こうとするが、タンクローリーは走り出してしまう。デイビッドが車に戻ると、また元の場所に戻って通せんぼをする。
 スピルバーグ監督はデイビッドに、タンクローリーの運転手との意思疎通を絶対に許さないのだ。
 怖い! デイビッドにできるのは、ただ逃げることだけなのである。
 
 恐怖が、我々の日常生活と地続きのところで起きるのも、デイビッドが経験している恐怖を共有してしまう大きな要因である。
 いま、車と無縁の暮らしをしている人はほとんどいない。日本の運転免許保有者数は7500万人近い。自分でハンドルを持ち、道路でタンクローリーと行き会った人は多いはずである。それに、大型トラックに後ろにぴったりつかれたり、突然前に割り込まれたりして肝を冷やした人もかなりの数に上るはずである。
 デイビッドはいま、そんな我々と全く同じ体験をしているのだ。違いは、このタンクローリーの運転手が常軌を逸していたというだけである。
 明日は我が身に起きるかも知れない恐怖。これは、怖い。

 

 

(余談)
一度、名古屋から横浜まで、夜の東名道路を走ったことがある。名古屋に単身赴任しているときだ。道は夜の方が空く。布団に入る時間を少しだけ伸ばして横浜で寝ようと、金曜日の夜、仕事を終えて午前0時過ぎに名古屋を出た。
夜、高速道路が空いているというのは、予断にすぎなかった。長距離のトラックで満員だった。追い越し車線に入ると、前がトラック、後ろがトラック、左がトラック。トラックの壁の中を走ることになった。
しかも、だ。トラックの運転手さん、前の車とほとんど車間距離を取らずに走るのが好きな方が、結構多い。前の車は、私の普通乗用車である。
怖い! ほんの少しタイミングがずれれば、我が愛車は運転手もろとも、11トントラックにペッチャンコにされてしまう! 何とか逃れようとしても、前にトラック、左にトラックでは、逃げ道がない!
わずかな隙を見出しては、後続のトラックを振り切るべくアクセルを深々と踏むのだが、混み合った高速道路では、すぐに前にトラック、左にトラック、直後にトラックが再現する。ホントに怖い!
恐怖の4時間を過ごした。2度と夜の東名高速なんか走るもんか!
従って、デイビッドの恐怖が、まるで我がことの如く、ヒシヒシと伝わってくるのであります。

 

 この恐怖の世界に誘い込むスピルバーグ監督の手法も見事というほかない。
 冒頭。画面は真っ暗だ。足音が聞こえ、車のドアを閉めるドスンという音がする。すぐにセルモーターが回り、グォーッとエンジンが始動する。後退する感じがし、何かが見えてくる。目をこらすと、自転車だ。徐々に明るくなり、床と壁と天井が、やがてガレージが、ガレージとつながった母屋が目に入る。
 バックで道路まで出た車はリアを右に振り、ミッションをドライブに入れて走り出す。交差点にさしかかると減速し、車が来ないことを確認して右折する。やがて都心に出る。都心部の高層ビル、行き交うバスや乗用車、交差点を渡る歩行者。やがて郊外に出てノノ。
 
 いつもと変わらないセールスマンの朝を、スピルバーグ監督は車のフロントガラス越しに見える風景だけで観客に見せる。4分近く、観客はデイビッドの車のフロントウインドウからの風景しか、見せてもらえない。
 デイビッドが見なかったもの、聞かなかったものは、我々も見もしないし、聞きもしない。最初から4分もの間、デイビッドと同じ立場と視線になりきっていると、やがて私がデイビッドになる。デイビッドの立場でこれから起きるであろうことを体験するよう強いられる。
 
 同時に、1つの方向しか見せてもらえない時間がこれほど続くと、小さな窓が1つしかない閉鎖空間に閉じこめられたような息苦しさ、不気味さ、不吉ささえも感じる。我々はデイビッドになりきるだけでなく、これから起きる恐怖体験への予感まで感じるのだ。
 この導入部、観客の誘導の仕方は、いま見てもとびきり新鮮だ。
 
 デイビッドの車を見せてもらえるのは4分たってからで、黄土色をしたポンコツのクライスラー・プリマスだ。デイビッドに会うには、さらに1分ほど待つ。まずバックミラーにサングラスをかけた男の目の部分が映り、間もなくフロントガラス越しに男の顔の全部が見える。この鼻の下に髭をたくわえているこの男がデイビッド・マンである。
 Hello, David!
 
 単なる機械を、不気味なモンスターに見せる手法も巧みだ。
 前を行く大型タンクローリーが見えてくる。火気厳禁、と表示があり、しかも全体が薄汚れていて、長い間草原や砂漠の中を走ってきたかのようだ。積み荷とあいまって何となく不安になる。ノロノロ運転のタンクローリーに追い抜きをかける。2連になった巨大な後輪、車両の下部を覆って装甲車のように見せる薄汚れた鉄板、再び2連の大きなタイヤ、大きな燃料タンク、前輪が次々と目の前を横切っていく。追い越し終えて前に出ると、タンクローリーの運転席の横にすっくと立った排ガス管から煙が吹き出している。
 このカメラワークもうまい。タンクローリーが、分厚い甲羅に全身を守られ、いまにも食いつきそうな巨大モンスターに見えてしまう。運転手の顔が見えないから、まるで自分で意志を持った怪物に思えてくるのである。ゾクゾクするような恐怖の予感がムクムクと頭をもたげてくる。
 
 そして抜きつ抜かれつの逃走が始まり、タンクローリーが徐々に殺意を持ち、ついにはオーバーヒートを起こしてしまったデイビッドの車に巨大なエンジンを積んだタンクローリーが迫るノノ。
 こうして、刺激を積み重ね、徐々に強めていくいつもながらのスピルバーグ監督の手法も、デイビッドと一緒にタンクローリーから逃げる我々を釘付けにするのだ。
 
 そして最後のシーン。崖から転落したタンクローリーにカメラは寄り、細部をズームアップする。タンクローリーは横転して大破しているのに、運転席の扇風機は、まだ勢いよく回転を続け、風を送り出している。タイヤはゆっくりと回っている。なに、こいつはまだ生きているのか? が、タイヤは徐々に回転速度を落とし、やがてピタリと止まる。
 いまモンスターは、断末魔のけいれんの後、絶命したのである。
 いつの間にか肩に入っていた力が、スーッと抜ける瞬間だ。
 
 それにしてもスピルバーグ監督、小道具の使い方がうまい。感心したのは、カーラジオである。
 ガレージを出た直後、デイビッドの車のラジオからは、カーディーラーのCMが流れている。天気予報、交通情報、ペットフード店のCM、痔の治療薬の宣伝、前日の野球の結果……。いつもと同じような朝の放送が、デイビッドにとってはいつもと同じ1日の始まりであることを耳から教えてくれる。そう、いつもと同じ、退屈で平凡だが、恐怖とは無縁の日常なのである。
 行く手をタンクローリーに阻まれて、約束の時間に遅れそうになったデイビッドは、苛立ってくる。苛立つデイビッドの車のカーラジオはOFFである。
 苛立ちが頂点に達したデイビッドは、危険な賭に出た。道路脇に空き地を見つけ、こいつを利用してタンクローリーを抜き去ろうというのだ。目一杯に加速して、舗装されていないがたがたの空き地につっこんだデイビッドは必死にハンドルにしがみつき、何とかタンクローリーを抜き去った。歓声を上げるデイビッド。
 やがて巡航速度に戻したデイビッドは、カーラジオのスイッチを入れる。カントリーミュージックが流れ出す。何とか危地を脱し、約束の時間に間に合う見通しもできたデイビッドの、緊張から抜け出した開放感、何となくうきうきした気持ちがカーラジオのスイッチを入れる行為で、カーラジオから流れ出すカントリーミュージックで、すっと観客に伝わってくる。
 
 そうそう、もう一つ忘れがたい小道具があった。電話である。
 最初にタンクローリーを抜き去ったデイビッドはガソリンスタンドによって給油をする。その時間を使って自宅に電話をかけるのだが、こいつが前夜の夫婦喧嘩の延長なのだ。
 
 「謝りたいと思って」

     「口先だけだわ」

 「本当に謝りたいんだ」
 
 受話器を持つ妻のそばでは、2人の子供がロボットのおもちゃで遊んでいる。そして電話は、デイビッドが6時半には帰る予定だと告げると、突然プッツリと切れる。妻の怒りはまだおさまっていないのである。
 
 このときデイビッドには、これから自分を襲う恐怖への予感は全くない。昨日と同じ日常のまっただ中にいる。なんだ、女房の野郎、多少は反省したからこっちから謝っているのに、突然電話を切ることはないだろう! 昔はかわいい女だったのに、だからドキドキしながらプロポーズして、いいわっていわれたときには天にも昇る気がしたのに、くそっ、いつの間にあんな気の強い、かわいげのない女になっちまったんだ? 俺の結婚は間違ってたのか? ひょっとしたら、ほかの選択肢、もっと違う人生があったんじゃないのか? いや、今からでも遅くないんじゃないか?
 などと思いながら空き缶を蹴飛ばしたところで、人生が変わるわけではない。仕事を終えれば、いつもと同じように「女房の野郎」が待つ自宅へ戻るのである。そして、2、3日もすれば、どちらも、喧嘩をしたことすら忘れて、再びごく普通の夫婦になるノノ。
 犬も食わない夫婦喧嘩とは、実は、外に敵がいないからできる時間つぶしのようなものだ。誠に平和な日常の象徴なのである。
 1本の電話で、デイビッドがいつもと同じ平凡な日常の仲にいることを納得させてしまうシーンだ。その日常のすぐ隣に、身の毛もよだつ恐怖があるのである。
 
 そうか、だとすると、我が家における今朝の諍いも、我が家の日常が日常として平和の中にあることの象徴なのだ。
 夫婦喧嘩ができるということは、実に意味深い、ありがたいことなのである。
 
 たった1本の、わずか90分の映画で、人生における、男の生き方における、家庭生活における夫婦喧嘩の哲学的意味にまで観客を導く。若き日のスティーブン・スピルバーグ監督は、やはりただ者ではなかったのである。

 

 【メモ】
激突! (DUEL)
 1973年1月公開、上映時間90分
監督:スティーヴン・スピルバーグ Steven Spielberg
出演:デニス・ウィーヴァー Dennis Weaver
   ジャクリーン・スコット Jacqueline Scott
   エディ・ファイアストーン Eddie Firestone
   ルー・フリッゼル Lou Frizzell
   ルシル・ベンソン Lucille Benson

【初出2005年3月11日】


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