#20 : ホワイトナイツ/白夜 − 男の体も美しい

 何度も書いたように、私は生粋の九州男児である。
 我が故郷で、男を最大に侮蔑する言葉は、
 
 "You, mother fucker!"
 
 あ、間違った。これは米国だった。我が故郷では、
 
 「おなごん、腐ったごたる」
 
 だ。標準語になおすと、
 
 「女の腐ったような」
 
 となる。
 
 このような文化で育まれた男は、ヘテロセクシュアルを当然のことと見なす。九州で男と生まれて、男に混じって幼児期の文化を吸収し、思春期にいたって、自分が持って生まれた資質がそうではなかったことに気が付いた人は、ほかの文化で育った人と比べて、より大きな苦しみと悩みに捕らわれるのではないかと思われる。
 幸いにして、私は頭の中に出来上がったセクシュアリティ通りの人間であった。そのような苦しみや悩みとは無縁のまま、今日に至っている。もってよしとせずばなるまい。
 
 そのような私にとって、人体の美とは、女性の独占物であった。男の体など、美しくない。鑑賞に耐えない。やはり美しいのは、ミロのビーナスに代表される女性の体ではないか。
 
 「礼人さん、どうして画家は、男性ではなく、女性のヌードを描くのか分かりますか?」
 
 「はあ? そぎゃん言わるっとそぎゃんですねえ。ま、画家ちうとは男がほとんどですけん、男の本能に従ごうとっとかなあ。ばってん、あん人たちが、ばさらか助平ん人たちん集まりじゃとばっかしは思えんですばってんねえ」
 
 「はっはっは。助平かどうかは関係ないのですよ。男の体って平板でしょう。あまり凹凸がない。それに比べて女性の体は実に起伏に富んでいる。だから、光線のあたり方1つ変わっても様々な表情を見せます。それに、曲線がなめらかです。美しいのですよ。画家は、やはり美を写し取りたいものなのです」
 
 学生時代、時々遊びに行っていた印刷屋の親父の話である。印刷屋の親父に、何でこれほど深い教養があるのか不思議に思ったが、話の中身はすんなり了解できた。
 そう、男の体は美しくない。美に溢れているのは女体である!
 
 長い年月、人体の美に関して極めて安定していた、微動だにしなかった私の価値観が、半年ほど前に大きく揺さぶられた。
 「ホワイトナイツ」を見て、男の体の美しさに感じ入ってしまった。魅せられたのである。
 
 米国とソ連が鉄のカーテンをはさんで対立していた東西緊張の時代を描いた作品だ。いかにもハリウッド風のハッピーエンドを用意し、米国風の自由と民主主義の勝利、たまには米国も間違えるけれども、復元できるバネは持ち合わせているという米国の正義を謳歌するあたりは、まあ、ほっとさせられると同時に、鼻持ちならない楽天性といえなくもない映画ではある。
 だが、こいつが私の価値観を揺さぶって、動かしてしまったのだ。
 
 ニコライ・ロドチェンコは、ソ連から米国に亡命したダンサーである。西側世界で大きな成功を収めた彼は、世界公演の旅に出た。ロンドンでの舞台を大喝采のうちに終え、次の公演地である日本に向かう途中、彼の乗った飛行機がシベリア上空でエンジントラブルに見舞われる。やむなく、ソ連の秘密軍事基地に強制着陸するのだが、亡命したロドチェンコは、故国では裏切り者。欠席裁判のまま15年の懲役刑を宣告された犯罪者の身だった。彼は直ちに軟禁状態に置かれた。
 といっても、ロドチェンコを収監するのがソ連の狙いではなかった。なにせ、世界的なダンサーなのだ。国民的ヒーローの亡命でつぶされた国家のメンツを回復するのがソ連の、なかでもKGBの狙いである。一度はソ連に見切りをつけて米国に飛び去ったロドチェンコが、西側世界に愛想を尽かして故国ソ連に戻る。これ以上の国家名誉の回復はない。飛行機の事故で偶然にもソ連領に降り立ったロドチェンコは、棚からぼた餅だったのだ。この絶好の機会を生かさない手はない。
 
 ロドチェンコの監視役を押しつけられたのは、逆に米国からソ連に亡命していたタップダンサー、レイモンド・グリーンウッドだった。黒人で、ハーレムでの貧しい暮らしから逃れるように軍隊に入った。だが、彼を待っていたのは、戦場での殺人であり、強姦であり、略奪だった。米国の正義の守護者と思っていた軍隊の現実に絶望したレイモンドは、脱走した。そう、あの北朝鮮に逃げていたジェンキンスさんと似た立場である。
 亡命したレイモンドを、ソ連は宣伝手段として使った。米帝国主義の病巣のただ中で使い捨て同然に酷使されてきた男が、新しい祖国としてソ連を選び取った。希望の国ソ連を世界に知らしめるに、これ以上の素材はない。
 だが、国家というものは冷酷である。レイモンドを宣伝素材として使ったのは新鮮な間だけ。鮮度はすぐに落ちる。厚遇する必要はなくなる。
 世界中の記者を相手に開いた記者会見で通訳を務めた女性、ダーリャと恋に落ちたレイモンドは、利用価値の消失とともに彼女と2人シベリアに追いやられ、しがないタップダンサーとして暮らす身の上だ。
 
 ソ連から米国に亡命しながらソ連に拘束された超一流ダンサーと、米国からソ連に亡命したタップダンサー夫妻の、奇妙な暮らしが始まった。彼らの周りには、常にKGBの盗聴、監視があった。
 
 東から西への逃亡者と、西から東への逃亡者。ひと昔より少し前なら、興味つきない設定だったろう。なにしろ、世界の2大強国として、ともに正義をいただき、世界を2分して自らが優れていることを競い合っていた両国なのだ。世界の国々が色分けされただけではない。建前として思想信条の自由を掲げる西側各国にもソ連の支持者がおり、主に口先で、時には実践を伴って、その正義を実現せんとしていたのだ。
 が、これは米国映画である。軍配は最終的に米国にあがることは、最初からの約束事だ。それに、いまとなっては、ソ連という国家は消滅してしまった。歴史の軍配が米国にあがって久しい。米国の迷走は、ソ連というライバルを失ったことに始まるという、きわめて説得力に富んだ分析もあるが、とりあえずこの映画とは関係ない。
 我ら観客は、安心して米国の側に身を置き、暴虐を尽くす国ソ連を敵と見なす。そうした立場に身を置いて、この3人がKGBとの知恵比べに挑む課程を鑑賞することができる。
 これも歴史である。
 
 というわけで、様々な曲折がありながら、この3人は自由世界、西側世界への逃避行を試みる。自分を犠牲にしてロドチェンコとダーリャを逃がすレイモンド。領事館の門を目前にして警察に捕まったロドチェンコとダーリャ。2人の成功を喜ぶ暇もなく、街から遙かに離れた人気のない場所に連行されて銃を突きつけられるレイモンド。はらはらどきどきの連続で、見ていて飽きない。政治サスペンスとしての仕上がりも一級品である。
 
 だが、それだけなら私の記憶に大きく残ることはなかった。この映画に並はずれた魅力をもたらしているのは、なんといってもロドチェンコを演じたミハイル・バリシニコフの踊りなのである。
 
 スクリーンに最初に登場するのは、仰向けにベッドに寝た上半身裸のロドチェンコだ。赤いマットレスに置かれた白い枕に頭を乗せ、たばこをふかしている。左の腕には時計が。カメラは、そのロドチェンコの胸から上をクローズアップで映し出す。

 

 

(余談)
たばことは、このような際に、きわめて様になる小道具であります。このシーン、たばこがなかったら、画竜点睛を欠いていたに違いありません。
世の嫌煙家の皆様、目指すべきはたばこの追放、禁煙ではなくて、たばことの棲み分け、分煙であると私は愚考するのでありますが、いかが?
まさか、あの愚劣な禁酒法を制定した米国にならって、我が国を世界で初めての禁煙法を持つ国にしようと思われている方は1人もいらっしゃらないと考えたいのでありますが……。

 

 やおら起きあがってベッドに座ったロドチェンコは、左手に持ったたばこをポトリと床に落とし、足でもみ消した。立ち上がって、優雅な舞いを始める。鉄パイプのベッドと、粗末なテーブルと、これも粗末な木製の椅子しかない部屋を、ロドチェンコは縦横に舞い踊る。すっと伸びた背筋、まっすぐ伸びたまま高く蹴り上げられる足、中心軸が揺れないスピン、あれでよく立っていられるなと感心するバランス、しなやかに動く体、指先まで行き届いた神経、すばらしい跳躍力を見せる下半身。
 筋骨隆々たる体ではない。身長も、どちらかといえば低い方だろう。だが、その体が動き出すと、何ともいえない優雅さと躍動感、力強さ、そして感情までもが放射される。ただ者ではない。
 
 ただ者ではないと思って、インターネットで検索してみた。なるほど、このミハイル・バリシニコフという俳優さん、本物のダンサーだった。10代で世界最高峰といわれるキーロフ・バレエ団に入り、1969年にはソロデビューしたというから、やはりバレエの技量は相当なものなのだ。
 おまけに、1974年にはカナダ公演中に亡命したとあった。まるでロドチェンコを地でいくような半生の持ち主なのである。

 

 

(余談)
バレエを見るのに、私は素人であります。長女が幼い頃、ほんの一時期バレエ教室に通い、仕方なく発表会を見に行ったり、テレビでプロのバレエを垣間見たりしたことはありますが、何の感慨もなく、何の美も感じ取れなかった、という人間にすぎません。
娘の発表会? いやあ、本当に真剣な表情をしてつま先立ち、皆と一緒に体を動かす姿を見て、微苦笑を禁じ得ませんでした。うん、普段のいい加減な表情を隠した我が娘は、舞台の上で一番真剣な顔をしていたのであります。踊りも、他に比べて見劣りしなかった、というより親の目には一番うまいように感じられました。
でも、見ながら思いました。この子はバレエには向いていない。
足の太さが一番だったのも、我が娘であったのであります。

 

 やがてカメラが引くと、ロドチェンコが踊っていたのは舞台の上で、客席はロンドンの紳士・淑女で埋まっている。ダンスが終わると、客席から割れんばかりの拍手が寄せられる。ロンドン公演の最終日だった。
 ここから物語が始まる。ミハイル・バリシニコフの持ち味を生かした、実に美しい導入部だ。
 
 舞台を離れると、ロドチェンコはすでに飛行機の中。すぐにエンジントラブルが発生し、緊急着陸、KGBによるロドチェンコの拉致と話は急展開し、サスペンス性を強めていく。いつしかその流れに引き込まれて食い入るように画面を見つめているのだが、でも、頭のどこかで、あの美しい踊りをもっと見たい、男の体の美しさをもっと味わいたいと思っている自分に気がつく。

 

 

(余談)
冒頭でも申し上げた通り、私には、そっち方面の趣味はありません。
でも、あれは凄かったですな。あれというのは、放送業界のアカデミー賞といわれるエミー賞で今年度、史上最多タイの11部門を独占した「エンジェルス・イン・アメリカ」です。私の大好きなアル・パチーノ、演技力に定評のあるメリル・ストリーブなんて大物が出ていることもあって、WOWOWでやったのを見ました。6時間を超すドラマです。
ハイビジョン画像、16:9の画角というのは実によろしいのですが、これがあなた、ホモとエイズのオンパレード。あのアル・パチーノが政治を裏で操る超保守派の悪徳弁護士をやるのはいいとして、実はホモセクシュアルでエイズにかかっており、政治力を発揮して一般では手に入らない特効薬を大量に入手ながら、薬石効なく、ついには死んじゃうなんて、ま、凄いドラマです。恋愛も男と女の間に生まれるものではなく、男と男の間に咲く美しい花なのです。
おまけにあなた、実物のおちんちんが2回も登場するのですよ。
「あらまあ、出てるわよ」
ってなものです。
ヌードになった女性を正面から撮ったシーンもあるのですが、こちらはあの部分だけボカシが入り、日本映画の常識に従っておりました。なのに、男の逸物だけは丸出しなのよ。
これって、いわれなき男女差別ではありませんこと?
私って、食い入るように見つめてしまいましたけど……。

 

 いや、懸念することはない。そのあたりはサービス満点の映画である。
 ロドチェンコは、最初のシーンを含めて5回もダンスを披露してくれる。圧巻は、レイモンドと2人、練習スタジオで繰り広げる踊りだ。軽いロックのリズムに乗って、舞い、走り、跳ぶ2人は、デュオの楽しさを満喫させてくれる、実に見応えのあるダンスシーンだ。レイモンド役のグレゴリー・ハインズもダンサーらしいが、このシーンを見る限り、2人の力量の差は歴然。全身のしなやかさ、ジャンプしたときの体の線の美しさ、片足をくの字に曲げて立ったときの決まり方、思わず、
 
 「いよっ! 大統領!」
 
 と声をかけたくなるほどの優美さが、バリシニコフにはある。
 
 キーロフ劇場の舞台で、元恋人・ガリーナを前に披露する踊りも印象深い。
 8年前、ロドチェンコは彼女を置き去りにして亡命した。残された彼女はソ連にとどまり、ソ連のバレエ界で高い地位を占めるに至った。8年ぶりに故国に舞い降りたロドチェンコを、ソ連に引き留める役を担わされてもいる。
 彼女は舞台の片隅で、ボリュームを絞って音楽を聴いている。ソ連の反体制詩人・ビンツキーの曲である。ロドチェンコとともに過ごし、ソ連の体制を語り合った時代は、まだ彼女の中に生きているのだ。
 やってきたロドチェンコに、彼女はソ連にとどまるよう説得する。亡命前の地位を約束し、キーロフ劇場の素晴らしさを説き、何とか自分の元に戻そうとする。しかし、ロドチェンコは揺るがない。
 
 「ここで僕はダンサーになった。この劇場は僕の一部だ。でも、僕は8年間、自由を味わった。君には分かるかい、本当の自由の意味が? 君はビンツキーを小声で歌う。僕は小声などいやだ!」
 
 そういったロドチェンコはラジカセのボリュームを最大にし、ビンツキーの音楽に合わせてキーロフの舞台で踊るのである。走って勢いをつけ、両手をいっぱいに突き出し、膝をついてそのまま滑る。両手は大きく開いている。左膝を床に着き、右足のかかとで後ろに滑る。右足の膝をつき、左足で蹴って体を前に進める。かと思えば、つま先でのジャンプを繰り返す。
 舞台の上を激しく動き回るダイナミックな踊りは、ロドチェンコの中で沸騰する怒りの表現だ。牢獄に近いとしか思えないこの国に自分を再び閉じこめようとするソ連。恋人ガリーナとの仲を引き裂いた東西の冷戦構造。それでも、未だにこの国にしがみついているガリーナ。ひょっとしたら、彼女を捨ててまで自由というものを求めざるをえなかった自分のエゴも怒りの対象に含まれているのかもしれない。
 
 先に書いたように、私はバレエなるものには全く素人である。それぞれの体の動きが何を表現するのか、そんなバレエの約束事など1つも知らない。なのに、このシーンからはロドチェンコの噴き上がるような怒りがヒシヒシと伝わってくる。
 芸術とは、すべてを越えて人の心に働きかけ、想いを伝えるものであるようだ。
 
 こうして私は、ミハイル・バリシニコフの体に、動きに完全に魅了された。不思議な気分である。
 だって、アル・パチーノやジーン・ハックマン、デンゼル・ワシントン、ショーン・コネリーなどなど、好きな男優は数多い。しかし、体が綺麗だ、動きが優美だ、と感じた男優は、ミハイル・バリシニコフをもって嚆矢(こうし)とする。簡単に言えば、初めての体験なのだ。
 ミハイル・バリシニコフさんを思い出すと、なにやら切なくなってきて、体がポーッと熱を帯びてきて、もう胸の内がモヤモヤしてきて……、
 などということは絶対にないと信ずる。
 絶対にないはずである。
 絶対にないと思う。
 絶対になければいいと……。
 
 くどいようだが、私は九州男児なのだ!

 

 

(余談)
私に趣味はないとしても、世がそれを認めるかどうかは別である。
学生時代のことだった。私は、アルバイトに行くべく、博多・天神の交差点にいた。アルバイト先は、そうシネマ・アンドレの2回目、「LET IT BE」に出てきた家庭教師先である。季節は夏の盛りだった。
彼の家に向かうべく、私は天神の交差点で信号待ちをしていた。
「すみません、いま何時でしょうか?」
後ろから声がした。まだ30前と見える男である。風采はあがらない。
「えーと、6時ちょい過ぎですね」
この程度の問いかけに答えるのは市民の義務である。答えるとすぐに信号が変わった。交差点を渡った。また後ろから声がした。
「あのー」
振り向くと同じ男であった。
「先ほどはありがとうございました。ちょっとお礼が言いたくて。いや、口で言うのも何ですから、どうですか、そのへんのビヤガーデンでビールでもいかがですか?」
私は、時刻を聞かれて答えただけである。小さな親切にも届かない行為である。それなのに、お礼にビールをごちそうしたいという。奇特な人である。いい人である。だが、私には仕事があった。
「いや、ご親切に。でも、僕はこれから家庭教師に行かなければなりません。時間がないのです。お気持ちだけありがたくお受けします」
「そんなあ、いいじゃないですか、1杯だけ」
「いえ、本当に時間がないのです。もう遅れそうなのです」
いや、この人、底抜けの善人である。こんなすばらしい人格が、同じ街に住んでいたなんて、世の中、まんざら捨てものでもないではないか?
その時だった。彼の態度が変わった。
「家庭教師? それって、いくらぐらい貰うの? その程度のお金なら、あたしがあげてもいいのよ
「………」
何が起きているのか、即座には理解できなかった。
「いいじゃない、つきあってよ。あたし、おフェラだってうまいのよ
「!!!」
その類の人であった。私は、なんとその類の人に、街頭で軟派されているのであった。
「いや、私は、まだ、その、女性も知らない男でして、私の人生を男性で始めるというのはちょっと、神の摂理に反するかと……。失礼します!」
私は、逃げた。駆けた。動悸がした。
1週間後、ほぼ同じ時間。私は同じ交差点に立っていた。バイト先に向かうのである。後ろから声がした。
「すみません、いま何時でしょうか?」
振り返った。同じ男だった。切れた。
「またあんたね。しつこか男やね。そぎゃん趣味はなかち言うたろが。そっでん付きまとうちゅうとなら、くらすっぞ(殴るぞ)!」
我が青春の一コマである。いま思う。
あたしって、そんなに魅力的かしら?

 

 【メモ】
ホワイトナイツ/白夜 (WHITE NIGHTS)
 1986年4月公開、上映時間136分
監督:テイラー・ハックフォード Taylor Hackford
出演:ミハイル・バリシニコフ Mikhail Baryshnikov : ニコライ・ロドチェンコ
   グレゴリー・ハインズ Gregory Hines : レイモンド・グリーンウッド
   イザベラ・ロッセリーニ Isabella Rossellini : ダーリャ・グリーンウッド
   イエジー・スコリモフスキー Jerzy Skolimowski : チャイコKGB大佐
   ヘレン・ミレン Helen Mirren : ガリーナ・イワノヴァ


【初出2005年1月28日】

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