#15  いまを生きる − 期待という名の抑圧

 「いまを生きる」を我が家に持ち込んだのは、長男だった。レンタルビデオを借りてきて、
 
 「お父さん、これ、面白いから見なよ」
 
 と食卓に放り出した。家族全員で鑑賞会を開いた。当時、我が家のテレビは21インチだった。
 何だ、つまらない学園ものか。しかもエリート校が舞台? チェッ!
 という印象が、やがて一変した。小さな画面を見ながら涙した。以来、忘れられない映画になった。いまはNHKハイビジョンで放送したものがハイビジョンのままデジタルビデオテープとなって、我が家の棚に並ぶ。
 
 なのに、今回は苦情から書き始める。
 
 ご覧になった方も多いと思うが、念のため粗筋をご紹介する。
 
 全寮制の男子進学校、Welton Academyは、卒業生の75%がIvy League、つまり有名大学に進む進学校である。日本でいえば、ラ・サール学園のようなものと思えば間違いないだろう。各地から、成績優秀な子供たちが集う。
 ここに、新任の国語教師、Keatingがやってくる。彼は、ここの卒業生でもある。

 

 

(注)
いろいろなところで、Keatingを「英語教師」と表記してある。もとは "English department"の教師である。直訳すれば「英語教師」だが、では日本で、日本語を教える「"Japanese department"の教師」は「日本語教師」か?
舞台は米国だ。米国でEnglishを教えるのは、国語の先生である。

 

 のっけからKeatingの授業は風変わりである。教室に閉じこもって、教科書を暗記しなさい、私の話を記憶しなさい、ここは重要です、試験に出ます、なんていうやり方はしない。
 
 ・ 子供たちを廊下に連れ出し、OBたちの写真を見せて「いま」を考えさせる。
 ・ 教科書の一部を「この文章は糞だ」と破り捨てさせる。
 ・ 自ら机の上に立ち、「何でここに立っているのか分かるか?」と問いかける。
 ・ 生徒たちに自作の詩をクラスで読み上げさせる。
 ・ 詩を作ってこなかった生徒は教壇に呼び出し、即興の詩を作らせる。
 ・ 中庭を自分流に歩かせる。
 ・ ……。
 
 自立せよ。自分の頭で考えろ。様々な視点を持て。そして、自分の可能性を信じ、新しいものを作り出せ。過去の知の体系に捕らわれることなく、自分の道を自分で作れ。
 旧態依然たるWelton Academy流教育の全否定である。
 
 進学に特化した伝統校で、Keatingの型破りの授業は新鮮だった。最初はとまどっていた生徒たちも、やがてKeatingに魅せられ、感化されていく。Keatingが在学中に組織していたDead Poets Societyも復活する。
 すべてがうまくいくかに見えた。ところがある日、生徒の1人が自殺した。Keatingに導かれて自分の道を見つけ、胸を膨らませていたのに、子供の自主性を認めない抑圧的な父親、無関心な母親に絶望したのだ。
 責任者作りが始まる。学校当局は、その特異な教育方針をもてあましていたKeating追い出しのチャンスと捉えた。Keatingの教育が原因だとの告発書を作り、従わねば処分すると脅して生徒に署名を迫る。学校と親の圧力に、生徒たちは署名のペンを拒否できなかった。
 かくして、Keatingは学校を去る。最後に彼は、私物を持ち出すために教室に立ち寄る。そこではKeatingを裏切ったとの罪の意識に苛まれる生徒たちが授業を受けていた……。
 
 教育とは何かを真っ向から問いかけた作品である。
 学校とは、
 親とは、
 自立とは、
 勇気とは、
 生きるとは。
 青春期に出会う様々な問題が集約され、感動とともに、たくさんの考えるヒントを与えてくれる。全編を貫く主張には説得力がある。Keatingを演じるロビン・ウイリアムズの説得力ある演技も、いつもながら見事というほかない。
 
 では、どこにを感じたのか?
 
 学びて思わざれば則ち罔(くら)し。思いて学ばざれば則ち殆(あや)うし。
 
 孔子の言葉である。こいつを教育の現場で解釈すれば、詰め込み教育だけではダメ、個性重視の放任主義だけでもダメ、ということになる。
 知識を詰め込むだけでは、データを詰め込んだハードディスクと同じで、そのままでは役にたたない。かといって、どんなに高速なCPUを備えても、どれほど多機能なソフトウエアを搭載しても、データベースがなければ使い道がない。
 学ぶことと考えることをほどよく調和させよ。孔子様は、なかなかものの分かった方である。
 
 作品中に、教師2人の対話が出てくる。

 

McAllister :

Quite an interesting class you gave today, Mr. Keating.
(面白い授業をしていたね)

Keating :

I'm sorry if I shocked you, Mr. McAllister.
(驚かせて失礼)

McAllister :

Oh, there's no need to apologize. It was very fascinating, misguided though it was.
(いや、謝ることはない。面白いがあれでは生徒たちが道を誤る)

Keating :

You think so?
(そうかな?)

McAllister :

You take a big risk by encouraging them to be artists John. When they realize they're not Rembrandts, Shakespeares or Mozarts, they'll hate you for it.
(芸術家たれと教えるのは危険だ。自分がレンブラントでもシェイクスピアでもモーツアルトでもないことを知ったら、生徒たちは君を憎むぞ)

Keating :

We're not talking artists George, we're talking free thinkers.
(自由にものを考えろと教えているのだが)

McAllister :

Free thinkers at seventeen?
(17歳の子に?)

Keating :

Funny, I never pegged you as a cynic.
(皮肉屋だな)

McAllister :

(taken aback by the comment)Not a cynic, a realist. Show me the heart unfettered by foolish dreams, and I'll show you a happy man.
(いや、現実家だ。愚かな夢に縛られない心の持ち主こそ幸いなり)

Keating :

But only in their dreams can man be truly free. 'Twas always thus, and always thus will be.
(真の自由は夢の中にある。昔も、いまも、これからも)

McAllister :

Tennyson?
(テニソンの言葉かな?)

Keating :

No, Keating.
(いや、 Keatingの言葉だ)

 

 理想を、夢を選ぶのか、現実的に生きるのか。これが全編を貫く対立の構図だ。我らがKeatingは理想と夢の側に立つ。教育の場における理想、夢とは、生徒の可能性を信じ、伸ばすことである。
 
 "Now, when you read, don't just consider what the author thinks. Consider what you think."
 (本を読んで、作者の考えだけにとらわれるな。君がどう考えるかに注意を払うんだ)
 
 細々とした知識や、他人の考え、思想を覚え込むことではなく、自分の頭で考え、自分の思想を作り出し、自分の進む道を見出すこと。それがKeatingの理想とする教育なのである。
 
 でも、それって、孔子様の言葉をひくまでもなく、行きすぎてないかい?
 
 文字を知らない人に、本を読んで人生を考えろというのは無理難題である。
 単語を記憶せずして英語を習得することは不可能である。
 歴史を知らない人に未来を尋ねるのは、木によりて魚を求めるのに似る。
 電気の基礎知識に欠けていては、自宅の電灯がフッと消えたときに対処のしようがなかろう。
 
 暮らすにも、考えるにも、知識は必要不可欠なんだよね。知識なしで創造ができるなんてのは夢物語でしかない。
 そして、最も効率よく知識を吸収する、教える側からすれば吸収させる方策の1つが、記憶重視の詰め込み教育であるのは否定できない。

 

 

(余談)
我が隣に座るM君がある朝、突然話しかけてきた。
「礼人さん、樋口一葉って女だったんですね」
「……」
「いやあ、今朝のテレビで、新しい5000円札やってたんですけど、見たら女じゃないですか。これまでずーっと男だと思ってたんですよ、は〜い」
「………………」
「樋口一葉、たけくらべ、って知識はあったんですけど、まさか女だとはねえ。今朝は、一つ賢くなりましたわ、は〜い」
このような人と何を語り合ったらいいのか、不明にして私は知らない。
これまで何もなかった砂漠のような土壌には、水が見る見る染み込む。M君にも同じ現象が訪れることを祈るばかりである。

 

 Keating流は、確かに格好いい。私だって、大学受験のために味も素っ気もない勉強をしていたころ、似たようなことを考えた。
 こんな糞の役にもたちそうにない知識を増やして、いったい何になるんだ? 学びたいテーマ、学ばなければいけない分野が見いだせれば、知識なんて自ずから増える。意味もなさそうなことを無理矢理頭に詰め込んでどうしようってんだ? こんな無味乾燥な努力をしなければ入れてくれない大学って、それでいいのかよ。
 
 でも、なのだ。いまになると、当時無理矢理頭にたたき込んだ知識も、私の基礎知識、何かを考えるときの素材になっていることは否定できないのだ。とりあえず頭にあることをベースに知識の幅を広げて、いつの間にか多面的に物事を見るようになったようなのだ。
 
 知識を頭にたたき込むのは、地道な、辛気くさい作業である。できれば、避けたい、逃げたい。
 記憶するより考えろ、はなるほど格好いい。でも、
 知識なしに考えるばかりでは、偏狭な結論に行き着く恐れが大きいのではないか?
 物を知らない奴が「俺はこう思う」なっていってることは、たいてい間違ってないか?
 そもそもKeatingも、Welton Academyでたたき込まれた基礎知識、教養があったから、今日の自分を形成できたのではないのか?

 

 

(余談)
自分のしたこと、思ったこと、感じたこと、考えたことを素直に文章にしなさい、という作文指導は間違っていると主張する本を読んだ記憶がある。一定のルールや技法を修得しなければ、まともな文章は書けない、というのである。いま、ふとその本を思い出した。

 

 だとすれば、Keatingいいとこ取りである。
 自分の頭で考えることを強いるには、相手が基本的な知識を身につけていることを前提とせざるを得ない。中身がない頭からは何も出てこないのだ。では、彼らはどこで基本的な知識を身につけたのか?
 舞台は全米有数の進学校だ。恐らく記憶偏重の教育システムの中で勝ちあがってきた少年たちが集まっている。高校時代の私に比べたら、遙かに知識を身につけているのに違いないのだ。
 だから、自分の頭で考えることを強いても破綻しなかったのではないか?
 それに、Keating以外の教師は、相変わらず知育偏重の授業を進めている。その授業も彼らは受け、単位を取る。
 だから、自分の頭で考えることを強いても破綻しなかったのではないか?
 考えるのに必要な基礎知識は、Keatingに出会う前、あるいはKeatingのではない授業で身につけた生徒に、Keatingは、考えろ、と叫ぶ。格好いい部分を独り占めしているといわれても仕方がないんじゃない?
 
 例えば。
 作詩の宿題をやってこなかったトッドが教壇に呼び出され、その場でKeatingに導かれ、即興で詩を作る。

 

Keating :

The picture of Uncle Walt up there. What does he remind you of? Don't think. Answer. Go on.
(ホイットマンの写真だ。印象は?)

Todd :

A m-m-madman.
(へ、へ、変人です)

Keating :

What kind of madman? Don't think about it. Just answer again.
(どんな? 直感で)

Todd :

A c-crazy madman.
(いかれてる)

Keating :

No, you can do better than that. Free up your mind. Use your imagination. Say the first thing that pops into your head, even if it's total gibberish. Go on, go on.
(もっといい表現が君ならできるはずだ。心を自由にして、想像力を働かせて。最初に心に何が浮かんだ?)

Todd :

Uh, uh, a sweaty-toothed madman.
(汗ばんだ歯の変人)

Keating :

Good God, boy, there's a poet in you, after all. There, close your eyes. Close your eyes. Close 'em. Now, describe what you see.
(いいぞ。君も詩人だ。さあ、目を閉じて。何が見える?)

Todd :

Uh, I-I close my eyes.
(目を閉じる)

Keating :

Yes?
(それで?)

Todd :

Uh, and this image floats beside me.
(そばに彼が)

Keating :

A sweaty-toothed madman?
(汗ばんだ歯の変人か?)

Todd :

A sweaty-toothed madman with a stare that pounds my brain.
(汗ばんだ歯の変人が射るような目つきで)

Keating :

Oh, that's excellent. Now, give him action. Make him do something.
(いいぞ。彼は何をしてる?)

Todd :

H-His hands reach out and choke me.
(か、彼の手が伸びて私の首を絞める)

Keating :

That's it. Wonderful. Wonderful.
(素晴らしい)

Todd :

And, and all the time he's mumbling.
(始終つぶやいている)

Keating :

What's he mumbling?
(何を?)

Todd :

M-Mumbling, "Truth. Truth is like, like a blanket that always leaves your feet cold."
(「真実、真実は脚がはみ出る毛布のようなものだ」と)

Keating :

Forget them, forget them. Stay with the blanket. Tell me about that blanket.
(どんな毛布だ?)

Todd :

Y-Y-Y-You push it, stretch it, it'll never be enough. You kick at it, beat it, it'll never cover any of us. From the moment we enter crying to the moment we leave dying, it will just cover your face as you wail and cry and scream.
(ひ、ひ、必死で引っ張っても足りない。蹴飛ばしても、叩いてもそうなんだ。生まれた瞬間から死ぬまで、嘆き叫ぶ僕らの顔しか隠せない)

Keating :

(whispering to Todd)Don't you forget this.
(これを忘れるなよ)

 

 どうです、これ?
 即興でこれだけの表現ができるトッドに、私は相当の基礎知識、言葉に対する理解、幅のある教養があると見るのだが、さてそんなもの、トッドはどこで身につけたのだろう? Keatingの授業からでないことだけは確かだ。
 何も詰め込まず、"Free up your mind. Use your imagination."なんていってるだけで生徒がこれだけの表現をしてくれるとすれば、教師とはなんと楽な仕事ではないか。
 
 などと悪態をつきながら、でも、学校当局や親のくびきから子供たちを解放し、自由に生きさせたいと奮闘するKeatingは、やっぱり素敵なのだ。1人でもいいから、こんな先生と出会いたかった、と思ってしまう。出会えていたら、私ももっとましな人間になれていたかも知れない、と考えてしまう。
 卒業した後も師と仰ぎたい、という教師には、とうとう出会わなかったもんなあ……。
 
 悩みに悩んだ末、舞台で自分を表現する演劇に自分の道を見出したニールが、期待という名の父親の抑圧にぶつかる。立身出世主義に凝り固まった父親が子供に向ける期待は、抑圧以外の何者でもない。せめてもの救いを求めた母も、ニールの演劇への情熱、才能を全く理解しない。無関心も立派な抑圧だ。

 そしてニールは、絶望の末、死を選ぶ。

 

 

(余談)
あれっ。いまになって思えば、息子が私にこの映画を見せたのは、私の期待という名の抑圧から逃れようとの魂胆があったのか?

 

 ニールの死の原因を全部Keatingに押しつければ我々は助かる。学校に協力したほうがいい。ぼくは協力する。君らも、いずれはそうするんだ。声高に主張するクラスメートをぶん殴るダルトンには胸がすく。ダルトンは結局放校処分になるが、男って、そうありたいよな。

 

 

(余談)
どうでもいいけど、このダルトンを演じたゲイル・ハンセン(Gale Hansen)、わがヒーローであるJohn Lennonの若き日を彷彿とさせる面構えなのであります。ちょっと斜に構えた役柄も、John Lennonを思い出させてくれるのであります。「いまを生きる」のほか、「シールズ/栄光の戦士たち」、「ミッドナイト・ブレイカー」なんていう映画にでているらしい。
いい役者になれよ!

 

 ラストシーンは圧巻だ。Keatingが教室を去ろうとするまさにそのとき、一度はKeatingを裏切って告発書にサインした生徒たちが、裏切った後ろめたさを吹っ切るように、口々に"Oh Captain, My captainn"といいながら、1人ずつ机の上にすっくと立つ。
 "Oh Captain, My captainn"とは、Keatingが最初の授業で引用したホイットマンの詩の一節である。彼は、私をKeating先生と呼ぶのもいいが、よかったら"Oh Captain, My captainn"と呼んでくれないかなあ、と生徒たちを笑わせるのだ。生徒たちは、その言葉を覚えていたのである。
 机の上に立ち上がるのも、Keatingが授業中にやって見せ、生徒たちにも実行させたことだ。常に違った視点を持て、大勢に流されるな、という教えだった。これも、生徒たちの記憶に深く刻み込まれていた。
 
 ひょっとしたら、自分たちも放校処分になるかもしれない。そんな恐れと戦いながら、でも、やっぱりKeatingが好きだ。心から尊敬している。去っていくKeatingへのはなむけとして、迷いを吹っ切って行動した生徒たちは、このとき、初めて自分の2本の脚で立つ人間になった。
 自分の決断で机の上に立った彼らの目には、教室は、学校は、世界は、どう写ったのだろうか……。
 
 皮肉屋の私には、
 そんなことして何の益がある?
 Keatingの処分を取り消せるのか?
 戦うべき時に戦わず、戦っても仕方がないときに戦うなんて、バカじゃない?
 だから、思想ってのは、理想ってのは、夢ってのは怖いんだ。正常な判断を歪める。
 などという内心の声もある。
 
 だけど、このシーンに来るたびに涙腺が緩むのが、致し方のない現実なのである。
 その涙腺がゆるむ私は、こう考えている。
 思想は、理想は、夢は、人間の背骨である。曲げるのはいい。だが、曲がっていてはいけないのではないか。
 Keatingは、曲がっていない背骨の持ち主になれと子供たちに訴えた。多くの子供たちが天に向かってすっくと立った姿でKeatingを見送ったのである。

 

 【メモ】
いまを生きる (DEAD POETS SOCIETY)
 1990年公開、上映時間128分
監督:ピーター・ウィアー Peter Weir
出演:ロビン・ウィリアムズ Robin Williams = John Keating
   イーサン・ホーク Ethan Hawke = Todd_Anderson
   ロバート・ショーン・レナード Robert Sean Leonard = Neil Perry
   ジョシュ・チャールズ Josh Charles = Knox Overstreet
   ゲイル・ハンセン Gale Hansen = Charlie Dalton


【初出2004年12月10日】
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