#11  暗くなるまで待って − 安上がり?

 独り暮らしのつれづれに任せて見た。名古屋に単身赴任していた時のことだ。
 
 横浜に帰るのは、月1回。それ以上回数を増やしては、家計がパンクする。単身赴任とは、体も心も大変だが、最も大変なのは財布である。
 という事情で、独りだけの週末を毎月3回、時には4回過ごす。たまっていた洗濯をすませ、過去1週間分のほこりをはき出し、買い物に行き、台所に立って向こう1週間分の朝食を準備する。それでも、時間はもてあます。

 

 

(宣伝)
名古屋における我が奮戦ぶりは、 「グルメに行くばい!」の 「 第15回 :野菜の手巻き寿司 」〜「 第33回 :鯛の塩釜 」に詳しい。
ここには、単身生活の心得から、調理を全くしたことない方にも役に立つ料理法など、有益な情報が満載されている。その気になった方は、こちらも楽しんでいただければ幸いである。

 

 余った時間をどう使うか。読書もよい。音楽を聴くのも楽しい。しかし毎週となると、バラエティがほしくなる。
 というわけで、レンタルビデオショップに通い始めた。
 
 単身赴任者がビデオレンタルショップに通う。となると、半分程度の読者は、自分自身の体験、ないしは好み、あるいは業と照らし合わせて、
 
 「そうか、あっち方面のビデオを見ていたのね」
 
 と想像されるかもしれない。
 
 「ふっふっふっ」
 
 と、意味深な含み笑いをされるかもしれない。
 
 ところが、違うのである。私は、あの衝立で囲まれた小部屋のようなところに並べられた、豊満な肢体を持つ美女が艶然と笑いかけてくる、あるいは悶え狂った痴態をみせている、あの手のビデオには、見向きもしなかったのである。

 

 

(余談)
といっても、現代に生きる健康な男子が、「あの手のビデオ」と全く無縁に一生を過ごせるはずもない。
私は、2回だけお付き合いをした。
1度目は、札幌だった。
東京への転勤時期が5月になったため、家族は3月末に横浜に帰していた。子供の新学期に合わせたのである。ために、1ヶ月少々、独り暮らしをすることになった。その間の出来事である。
会社の帰り、同じアパートに住んでいる同僚と、たまたま一緒になった。一緒に帰りながら、
「ビールを飲みながらビデオでも見よう」
ということで意見が一致した。一致していなかったのは、「ビデオ」という言葉の定義だったことを後で知ることになる。
レンタルビデオショップにおもむき、それぞれに「ビデオ」を探した。そのうち、
「おーっ、あった、あった。探してたんだよ、これ」
という声が、棚の向こう側から聞こえてきた。どう聞いても、我が同僚である。
そんなにレアな映画があったのか。気になって、棚の向こうに回り込んだ。豊満な肢体の、悶え狂った、数十人のうら若き美女たちが、ビデオのケースから私にほほえみかけていた。
「礼人君、これなんだよ。ボクは巨乳ものが好きでさ。これ、この娘、いいんだよ。彼女の最新作なんだ」
彼は、その「巨乳もの」を含めて、「あの手のビデオ」を2本借りた。圧倒された私は、1本も借りることなく店を出た。
我が家で、缶ビールを飲みながら、2人で見た。画面でホルスタインが繰り広げる痴態と、それをのぞき込む中年親父2人の組み合わせが、何とももの悲しい夜だった。
彼は、それなりに楽しんでいたようである。まともな感受性の一部が欠落している人というのは、このようなケースに限って、羨ましいものである。
2度目は、社員旅行の景品で当たったテープだった。野球のバットが登場したりして、見ながら
「へーっ」
と感心したが、1度見終わって、後輩にあげた。ヤツ、あのビデオ、どう使ったのかな?

 

 もっぱら、それまでの人生で見落としていた、いわゆる名画を借り出した。黒澤明作品のほとんどに目を通したのも、ここでのことである。
 
 その1本がこいつだった。
 
 「暗くなるまで待って」
 
 原題は、
 
 "Wait Until Dark"
 
 である。何の工夫もない邦訳だが、こねくり回しすぎて映画の中身と全く離れた邦題になるより、ずっとましといわねばならない。
 
 このタイトルを見て、私は想像した。
 
 「ふむ、これは男と女の物語に相違ない。にしても、だ。ヘップバーン? ヘップバーンが、夜になるのを待って濡れ場を演じるってか? 搦みをやるってか? あの顔で? あの体で? ミスキャストじゃあないの? でも、まあいいか。ミスマッチも楽しかるべし、だ」
 
 部屋に帰って早速再生した。想像が、完璧に裏切られた。濡れ場も、搦みシーンも、全く出てこない。
 
 ヘップバーンの、よく言えばスリムな、あからさまに言えば骨と皮と筋でできたような体が悶える濡れ場や搦みシーンを見ずにすんでホッとした。
 いや、ちょっぴり残念だったような記憶もある。

 

 

(余談)
そういえば、ヘップバーンの映画には、時折意味深な題名がついている。この映画もそうだし、「昼下りの情事」なんて、いったいどういうつもりでつけたんだ? もっとも、こちらの原題は「LOVE IN THE AFTERNOON」だから、翻訳がねじ曲がっただけとも言えるが。

 

 突然だが、世の中は不公平にでき上がっている。人がすべて平等であるなどという戯言(ざれごと)は、フィクション、あるいは願望、さらに言えば妄想にすぎない。
 
 平和で、世界で最も豊かな国になった日本で生まれる子がいる。貧しいバングラデシュや戦火にさらされるイラクで生まれる子がいる。

     平等か?

 東京の都心で生まれる子がいる。九州の片田舎で生まれる子がいる。

     平等か?

 資産家に生まれる子がいる。失業者に生まれる子がいる。

     平等か?

 あまり勉強しないのに成績のいい子がいる。どれほど勉強しても成績がふるわない子がいる。

     平等か?

 モテモテの男がいる。女に縁がない男がいる。

     平等か?

 イチローがいる。私がいる。

     平等か?

 きりがないからこのあたりでやめる。つまり、かくのごとく、世の中はそもそも不平等にできている。人はそれぞれの価値軸における序列のどこかに位置しながら生きている。国語の成績は294番、野球の打率は53番、寄り集まってくる女の数は1番、持ってる金の額は9451番、てなものである。
 じゃあ、平均点が同じになるかというと、こいつも同じにはならない。唯一平等なのは、人はいずれ死ぬ、という事実だけである。
 この点をご理解頂ければよい。
 強いものは強く、弱いものは弱いそれが世の実態である。
 
 動かしようがないように見える現実に、この映画は挑んだ。そしてみごとにひっくり返してみせた。
 
 出張に出ていた夫が人形を持ち帰った。空港で見知らぬ女性に預けられ、返す機会がなくて仕方なく携えてきたものだ。
 この人形を巡って事件は起きる。人形には、カナダからアメリカに密輸された麻薬が隠されていた。この女は、密輸を取り仕切る犯罪組織の運び屋だった。発覚しそうになったのでこの夫に押しつけたのだった。当然のことながら、犯罪組織は人形奪還に動き始めた。
 夫の留守中、この家を守るのは、ヘップバーンが演じる妻である。だが、彼女にはハンディキャップがあった。盲目なのである。
 
 犯罪組織に属するプロの殺し屋と、ヤツが雇った犯罪者2人の合計3人が、この家から人形を取り返そうとする。できれば誰も傷つけることなく持ち出したい、というのは、単に手間、面倒を省きたいというさぼり根性に他ならない。いざとなれば命を奪うことも辞さない血の冷たさは、彼らの属性である。
 この3人が、夫が出張で出かけたすきに人形を取り戻そうと、この家を訪れる……。
 
 プロの、男の犯罪者3人vs.盲目の女性。
 これほど明瞭な力量の差もない。3人は圧倒的に優位な立場にある。女性で、しかも視力がない妻は圧倒的に弱い立場にある。
 だれが、どう考えても、ヘップバーンの演じる妻に勝ち目はない。麻薬が犯罪組織の手に取り戻されるのは627%確実としか思えない。
 それが、世の常識である。
 
 ところが。
 1つだけ手があったのだ。それが
 暗くなるまで待つ
 なのである。
 
 盲目の女性が絶対的な弱者であるという世の常識は、世に光があることを前提とする。しかし、光がなくなれば? 常識そのものが存在しない世界が現出する。
 視力のない世界に生きる人間には、光があろうとなかろうと何の違いもない。が、なまじ視力のある人間にとっては、固い地面が突然流動化するような、驚天動地の事態である。突然、最大の情報源がなくなるのだ。
 
 夜。まもなく敵がやってくる。思い惑った挙げ句、ヘップバーンは、窓のシャッターを下ろして外光を遮り、手探りで家中の電球をはずし、はずしただけでは安心できずに電球を1個1個割る。完全な闇を作り、敵の襲撃に備えるのである。
 こうして、突然秩序が大逆転する。絶対的な弱者が圧倒的な強者になり、絶対的な強者が、圧倒的な弱者になる。
 
 「ヘップバーン、偉い! よくやった!」
 
 思わず拍手したくなる、胸のすくような逆転劇である。
 
 9回裏の逆転ホームランに限らず、逆転劇は爽快だ。特に、金に飽かせて力のある選手をかき集め、「常勝」などという戯言(ざれごと)を真面目に実行しようとするセ・リーグのチームが逆転負けを喫したりすると、踊り出したくなる。このときだけ、だから野球は面白い! と思う。

 

 

(余談)
世の中から逆転劇が減っている。
米国では富の一極集中がますます進み、富める者はますます金持ちになり、貧しき者はどうあがいてもはい上がれないようになりつつあるそうだ。階層の固定化というのだろう。
世界で最も成功した社会主義国ともいわれるほど格差の少なかった日本でも、
「えっ!」
と言いたくなることが起き始めた。「常勝」志向のプロ野球チームの問題ではない。プロ野球なんて、なるようになればいい。
国立大学の変質である。ずいぶん前に、授業料が引き上げられた。最近、独立法人になった。いろんな理由が挙げられていたが、それで本当に世の中がよくなるのか、前々から疑問がある。
生活保護家庭の長男だった私に、私立大学という選択肢はなかった。唯一選べたのは国立大学である。授業料が月1000円と、格段に安かったからだ。豊かな家庭の子は私立にでもどこにでも進んだらよろしい。しかし、貧しい家庭の子供にとって、国立大学は大きな可能性を開いてくれる登竜門だった。これを機会の平等という。
いや、貧困家庭の子供たちの可能性に道を開くだけが目的だったのではないだろう。あらゆる階層から有能な人間を拾い上げ、国家社会の力量を底上げする狙いも、授業料1000円には込められていたはずなのだ。私がそれに該当するかどうかは、この際別問題である。
それが、「改革」で変わった。いま、貧困家庭の子弟でも、国立大学なら進めるのだろうか?
現首相がキャッチフレーズにした「米百俵」は、改革のために生みの苦しみを甘受するという、彼がいうような話ではない。
友藩から贈られた100俵の米は、腹を空かした藩民に分け与えても3日(だったと思う)で食い尽くす。それより、全員で空腹に耐えて、この米を換金しよう。その金で、藩の将来を託す有能な人材を育てる教育を整えよう、という話なのだ。苦しむのは、藩の将来を担う人材を育てるためなのである。
いま、日本で、納得できない改革が進む。

 

 この映画はつい最近まで、我が家のコレクションにはなかった。我が家に録画環境が整った後、NHKWOWOWも放映してくれなかったからである。それがつい先日、1500円(税込み1575円)の廉価版DVDで出た。これは買うしかない!
 
 早速再生して楽しんだ。
 
 「どうだ、面白い映画だろう」
 
 という私に、妻が答えた。
 
 安上がりに作ってある映画ね」
 
 妻はオードリー・ヘップバーンを好まない。声が嫌だという。ま、人間、それぞれ好みがあって世の中がうまくいっているのだから、それは仕方がない。
 でも、安上がり?
 
 見直して、納得した。109分の9割前後が、ヘップバーンが住むアパートの1室と、その部屋の窓から見える道路で出来上がっているのだ。実際にいかほどの制作費がかかったのは知らない。だが、金がかかっていないように見えるのは間違いない。
 
 インターネットで見ていたら、この映画、もとは舞台劇だったのだという。だからなのかと納得した。
 
 それにしても、金をかけなくても、閃きと、閃きを映像化する才能があれば、いい映画は作れる、という単純な事実を再確認させてくれる映画でもある。

 

 【メモ】
暗くなるまで待って (WAIT UNTIL DARK)
 1968年公開、上映時間109分
監督:テレンス・ヤング Terence Young
出演:オードリー・ヘップバーン Audrey Hepburn = スージー
   アラン・アーキン Alan Arkin = ロート
   リチャード・クレンナ Richard Crenna = マイク
   エフレム・ジンバリスト・Jr Efrem Zimbalist Jr. = サム


【初出2004年11月12日】
▲【シネマらかす】にもどる               

*当サイトの記事及び画像の無断転載は禁止します。
*ご意見・ご感想・お問い合わせはメールでお願い致します。