#9 藍色夏恋 − できれば日本で続編を

 、に強く惹かれた。心がホカホカになった。
 
 3人の高校生のひと夏の話である。
 1人の女の子、リン・ユエチェンは、ある男の子にあこがれている。若い、淡い恋だ。相手は、水泳部でギタークラブにも所属するハンサムな男の子、チャン・シーハオ。まあ、柔道部で生徒会役員だった高校時代の私のような、いかにももてそうな、性格のいいイケ面高校生である。
 
 いつの時代にもある、どこにでもある、いくらでも転がっている話が始まる。私にだって、あなただって、記憶の底をガサゴソ探ってみれば、そんな想い出の3つや4つは転がっているはずである。
 
 は全てを黄金に変える。ユエチェンには、シーハオの香りのするもの、これすべてダイヤモンド以上の宝物。彼女は、シーハオ・グッズ・コレクターである。シーハオが使ったバスケットボール、シューズ、飲み捨てたペットボトル、水泳用のゴーグル、ボールペン、それに何故か、彼の日記まで彼女の部屋にある。おいおい、いったいどうやって持ってきたんだ?
 
 こいつも胸キュンの想い出だろう。彼の、男である私の場合は彼女の、触ったもの、使ったもの、身につけたものは、誰にも奪われないように宝石箱に入れて金庫に保管しておきたい。時々取り出して愛でれば、気分は天国だ。フェティシズムなんて言葉は知らなくても、宝物の価値が減じるわけではない。

 

 

(余談)
同じように異性が身につけたものに執着しても、下着泥棒とは、全く別種の行動である。念のため。

 

 思いはいやが上にも募る。でも自分では彼に告白できない。若い恋には、大胆さと臆病さが同居する。そこで、親友の女の子、モン・クーロウにキューピッド役を頼むのだが、ここから計算違いが生まれる。シーハオが、自分に思いを寄せるのはモン・クーロウだと思い込み、思いこみついでに、いつの間にか彼女に惹かれていっちゃうのだ。三角関係である。が、クーロウはなかなか頭を縦に振らない……。

 

 

(余談)
シーハオ君、いい性格でイケ面でと、私と同じ世界の住人であります。それだけでなく、タイプも同じなのであります。女性に対して、告げられて反応するのであります。
高校生の時のGFとのきっかけは、我が悪友だった。
「おい、あんやつがお前ば好いとっとげなぞ。お前、どうせ一人もんやろが。よか奴やけん、付き合うちゃらんか」
言ってきたのは、「グルメに行くばい! 第3回 :お好み焼き」に登場した肉屋の息子Mだった。言われて初めて、心が動いた。
付き合ってしばらくして、聞いてみた。
「あんたが俺ば好いとって、何でMが知とったと? 話したつね?」
意外な答えが返ってきた。
「えっ、うち、誰にも言うとらんよ。おかしかね。何であん人が知っとったとやろか?」
Mに問いただした。
「はあ? おかしかね。聞いたとばってん……。夢でん見たっちゃろか?」
縁とは奇なものである。
さらに、我妻も、向こうから迫ってきたのであります。突然、横浜から博多まで遊びに来るという手紙が来て、私は
「顔を見て、見分けられるだろうか?」
と訝りながら博多駅まで迎えに行ったのであります。
つまり、私は押しに弱いタイプでありますぞ。私を狙っているあなた、押してみてはいかがです?
もっとも、たまにはうっちゃったりしましたが……。

 

 サナギが蝶になるように、人も羽化する。その時期を思春期と呼ぶ。
 訳のわからないモヤモヤが体の芯から噴き出す。未体験の、驚くほど強い衝動だ。さて、こいつに乗っかっていいものか、とりあえず我慢した方が賢いのか。突き上げてくる奔流をいったいどう扱ったらいいものか、何ともわからないまま翻弄されてしまう。
 
 リン・ユエチェンが、なぜか、親友クーロウの名でシーハオに出してしまったラブレター。
 シーハオのアプローチは拒否しながら、夜の道でバッタリ会った体育教師に
 
 「私とキスしたい?」
 
 と言ってしまったモン・クーロウ。
 なのに、翌日、学校で。その気になった体育教師が近寄ろうとすると、モン・クーロウは突然、避けていたシーハオと腕を組んで無視する。
 
 「俺と付き合おう」
 
 と迫るシーハオに、
 
 「私は女の子が好き。だから付き合えない」
 
 と突き放した体育館。でも、唇だけは合わせてしまう。
 
 どれもこれも、本当の気持ちだった。
 でも、どれもこれも、本当の気持ちじゃなかった。
 胸の内にフツフツと吹き出してくる訳の分からないものをどんな形にすればいいのか? 自分で自分にとまどいながら、誰もがくぐる大人への門を、おずおずと叩いてみたのである。
 
 私もあなたも、幾ばくかの甘酸っぱさと、赤面して穴があったら潜り込みたいような恥ずかしさを感じることなしには思い出せないこの時期を、「藍色夏恋」は、掌中の玉を愛撫するようにやさしく、丁寧に、丹念に写し取っていく。
 
 ああ、そうだよなあ。俺にもあんな頃があったんだよ。そうそう、このシーン、俺の時とそっくりジャン!
 なんという名前だったかねえ、彼女? 美鈴? 幸子? 洋子? 明子? 沙希子? あれっ、高校生の時はどの子だっけ?
 しばらく付き合ったんだよなあ。うん、一緒に自転車を並べて下校しても、手も握らなかった、いや握れなかった。ホントは抱きつきたい、なんて思いながら、でもそんなことできなかった。俺って、やっぱり真面目だったんだ、あのころも。
 いつの間にか会わなくなったけど、そういえば彼女、どうしてるかねえ。もうすっかりオバサンだろうけどな。
 
 1つ1つのシーンが、記憶の琴線をチクチクと刺激する。眠っていた記憶が、美しい想い出として呼び覚まされる。何故か、嫌な想い出、恥ずかしい記憶はふるい落とされ、我々は安心してノスタルジーの海を漂う。ああ、いい映画だったなあ……。
 
 まあ、「藍色夏恋」は、一面ではそんな映画である。観客は、自分にも確かにある、あるいはあった青春時代を追体験し、若くなくなった人は何となく気持ちが若返り、ほのぼのとした気持ちで映画館から出て、帰宅の途につく。
 
 ところが、どっこい。私はそれだけじゃあ終わらせてもらえなかった。ノスタルジーより遠いところに運ばれてしまった。運んだのは3人の、なかでもモン・クーロウの目、であった。
 モン・クーロウちゃん、セックスというやっかいなものに目覚めてしまって、もてあましてしまって、勢いで体育教師を誘惑したりする。なかなかに大胆な女の子である。
 シーハオには惹かれる気持ちもあったのだろう。高校生の分際で唇を重ねてしまう。なのに、追われると逃げ出し、男の子より女の子が好きなんだと、衝撃の告白をしてしまう。
 ませた女子高生である。小悪魔とも、男心を弄ぶ妖婦の素質ありとも見える。でも、目が、なんとも清々しいのだ。見ているだけで心が温かくなり、何となく嬉しくなる目なのだ。
 素直に、でもしっかりと大地に足を踏みしめて、いまを確かに生きている人間の目なのである。
 
 彼女はそれほど顔立ちの美しい少女ではない。胸の薄い体も、まだ子供のものである。腰は細く、脚の形もいまいちだ。何の変哲もない白のブラウス、膝まであるグレーのスカートという制服は、お世辞にも見栄えがするとはいえない。しかも、彼女のブラウスはずり上がり、半ばスカートからはみ出している。
 女としての魅力は、限りなくゼロに近い。
 
 比べて、いつも私が目にする日本の女子高生は、彼女より遙かに美的である。
 ファンデーションで地肌を整え、薄く頬紅をさして華やかさを演出する。アイラインアイシャドーマスカラ、で縁取った目を、さらにまつげをカールさせることで蠱惑的にする。唇には当然をさす。
 女子高選びの基準は制服の可愛らしさである。そもそもミニに仕立てられているチェックのスカートなのに、彼女たちは腰のベルト部分を折り曲げ、さらに短くして身につける。人生で一番美しい時期にある自分の体を、これでもか、これでもか、とばかりに人目と陽光にさらして闊歩する。
 街にばらまかれたショーガールズである。

 

 

(余談)
JR品川駅で、手鏡を使って女子高生のミニスカートの中を覗いた、と疑われている先生、あなたは女子高生たちの挑発的な、蠱惑的なコスチュームに我を忘れたのか、忘れずに踏みとどまったのか。
でもねえ、江藤淳さんはこんな事を言っておりますぞ。
「私は、米国にいるころ、ヘンリー・ミラーの小説がニューヨークとカリフォルニアの二州で猥本扱いにされて発禁を命じられるのを見聞した。これはもとより野蛮な仕打ちである。しかし、実はそういう強い禁止の、あるいは禁忌の力が社会にあるときにだけ性はミラーの場合のように詩になりうる。性の解放とはもとより性の衰弱、あるいは喪失にほかならない」(江藤淳コレクション4、筑摩学芸文庫)

 

 でも、彼女たちはモン・クーロウより魅力的かなあ?
 アイライン、アイシャドー、マスカラ、カールさせたまつげで隈取られた彼女たちの目は、モン・クーロウの目のように人を惹きつけるかなあ?
 
 携帯電話、それは日本の女子高生の必需品である。彼女たちは携帯電話を握りしめて歩く。着信したら直ちに応えるためだろう。呼び出し音が3回、5回鳴っても出ないと、そんなに長く相手を待たせていると、取り返しがつかないことが起きてしまうかのだろうか?
 彼女たちは、薄氷を踏む人間関係を生きているようである。
 
 モン・クーロウも携帯電話は持っている。だが、握りしめては歩かない。
 映画の中で携帯電話を使うシーンはわずか2回。
 携帯電話とは、単なるコミュニケーションの道具に過ぎないのである。
 
 モン・クーロウたちの移動手段は、登下校にも、友人を訪ねるのにも、自分の脚か自転車をつかう。バスや電車には乗らない。
 
 モン・クーロウたちは、携帯電話でゲームに興じたりしない。
 
 モン・クーロウたちは、コンビニの前で座り込んでバカ笑いしたりしない。
 
 そういえば、モン・クーロウたちは、塾や予備校に通うこともない。
 
 迷う。とまどう。世界のどこで生きようと、思春期のさなかにいる人間は、同じ課題を突きつけられているはずである。
 それなのに、この映画を見ると、日本の高校生たちが、何か生き急いでいるように、時間を飛び越して大人になろうとしているように見えるのだ。
 
 肉体を誇示し、化粧を重ねるのはミニ大人である。
 
 いい大学に進んで、一流企業に入ろうと努力するのはミニ大人である。
 
 人間関係に神経を磨り減らすのはミニ大人である。
 
 早々と人生を投げて落ちこぼれるのはミニ大人である。
 
 もてあます時間を仮想現実の中で消費するのはミニ大人である。
 
 そんなに焦らなくても、否が応でも、いつかは大人にならざるを得ないのに。
 促成栽培の野菜の味は、いまいちだというのに。
 
 私は、モン・クーロウたちに、ゆったりとした、豊かな時間の流れを見たように思う。急いで生きなくていい。焦って生きる必要はない。いまは、大人への入り口で自分に降りかかってくること、自分の中からわき上がってくるものと四つ相撲をとる時期なんだよ。
 
 迷いながら、とまどいながら、でも2度と帰ってこない夏を1歩ずつ踏みしめて歩いている。だから、モン・クーロウたちの目は魅力的なのではないか。
 
 突然だが、久しぶりに接骨院に行った。この日記を読み継いで頂いている方はご存じだと思うが、2003年初めの交通事故をきっかけに通い始めたところである。
 ここに、半年ほど前から新しいお兄ちゃんが来た。患者ではない。接骨士見習いである。まだ患者には触れさせてもらえない。タオルを交換したり、患者をローラーマッサージャーに案内したりの下働きである。
 このお兄ちゃん、来た当初はどう猛な顔つきだった。髪を黄色く染め、いつも噛みつきそうな目をしていた。しばらくして頭を坊主狩りにした。タダの坊主狩りではない。クリクリに刈られた黄色い髪の一部がさらに短く刈られ、あるいは剃られ、いくつもの筋が文様になっていた。
 
 「おい、キミの頭には地図が書いてあるな。秘密の埋蔵金の場所か?」
 
 とからかいながら、いや、これでこいつが怒ったらどうしよう、怖いぞ。ちょっと無謀だったかな、なんて内心ヒヤヒヤしたこともある。
 
 そのお兄ちゃんが、最近変わった。料金を払いながら、思わず
 
 「やっと自分のいる場所が見つかったみたいだな」
 
 と声をかけた。
 
 「えっ、どうしてですか?」
 
 と訝るお兄ちゃんに、
 
 「目つきがよくなった。ずいぶんいい目になった」
 
 と話したら、恥じらうようにニッコリ笑った。
 自分の生き方に自信が持てると、大地を踏みしめている確信が持てると、人は素敵な目になる。
 
 「藍色夏恋」。その続編を、いつの日か、日本で作って欲しいと心から願う。素敵な目をした日本の高校生を見てみたい。
 お嬢様方、素敵な目をした高校生に育って頂けませんか?

 

 【メモ】
藍色夏恋(BLUE GATE CROSSING = 藍色大門)
 2002年、上映時間84分 台湾/フランス
監督:イー・ツーイェン Yee Chin-yen
出演:チェン・ボーリン Chen Bo-li = チャン・シーハオ
   グイ・ルンメイ Guey Lun-me = モン・クーロウ
   リャン・シューホイ = リン・ユエチェン


【初出2004年10月29日】
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